63回目 追放、そして「ざまあ」の流れ 2
面白くないのが、追放した側である。
問題のある集団ほどその傾向は強かった。
まともな者達ならば、そうはならない。
やむなく追放した者達は、追い出さねばならなかった者達の成功を祝福した。
新しいところで上手くやってる事を、我が事のように喜んだ。
だが、問題のある者達はそうではない。
そういう者達に共通するのは、他人の成功を決して喜ばない事だ。
どれだけ他人が成功しても、自分達に関係する事は無い。
これが事業における市場争いならともかく。
より多くの客を握った者が有利になるだろう。
だが、迷宮探索ではそうではない。
迷宮は広大だ。
奥に行けば行くほど広がっていく。
正確な測量がなされたわけではないが、扇状にひろがっていくと言われている。
そんな迷宮なので、場所争いが起こる事はほとんどない。
これは、場所の広さが一定に決まってるならそうもいかないだろう。
怪物が集まりやすい、狩りやすい場所。
そこを巡る争いもおこるかもしれない。
その場合、より強い者達が場所を占有するという可能性が出て来る。
しかし、迷宮においてはそうではない。
奥に行けば行くほど広がるので、場所取りに困る事は無い。
出て来る怪物の強さは数が変わる事もほとんどない。
あるとすれば、どれだけ深い場所であるかどうかだ。
それにより、出て来る怪物の数が変わってくる。
それが得る事が出来る魔力の差になる事はありえた。
つまり、食って行けるだけの稼ぎを得る事は可能だ。
無理して狩り場を増やしたり占有する必要は無い。
これが指し示す事は一つ。
他の集団がどれだけ強くなろうと、自分達の成功には影響は無い。
影響するのは、効率的に怪物を集めて倒せるかどうか。
その部分にしかない。
ようは、手段としての能力だけがものを言う。
作戦や統率。
そういったものが優れてるかどうか。
迷宮における成功とは、この一点にかかっている。
なので、他の集団の成功に苦虫をかみつぶす必要がない。
そもそも、競ったり争う必要がない。
それなのに、無駄に競争心や対抗心を燃やす連中がいる。
嫉妬。
そう言い換えても良いかもしれない。
人間の持つ感情の中で、もっとも醜いとすら言われるものだ。
自分より優れた者が許せない。
自分より上手くやってる者が許せない。
自分より幸せな者が許せない。
そういう感情を抱く者は確かにいる。
この醜い感情を抱き、行動の原理にしてる者達。
問題のある集団というのは不思議とこういう連中が多い。
こういう連中が集まるから、問題のある集団になりえるのかもしれない。
何にせよ、そういう者達にとって、追放した者達の成功は許せるものではない。
追放の為の理由や口実は様々だ。
だが、こういう連中が追放する本当の理由は一つ。
それが面白いからだ。
面白い。
これほどの利益はない。
金銭的な、社会的な、世間的な利益や利点にはならないだろう。
しかし、心理的な利益にはなる。
満足感というべきだろうか。
満足感。
人が無視する利益だ。
特に効率や利益・損益を口にする者ほど無視していく。
それどころか、無駄・不要として切り捨てる。
しかし、人間の行動とは、えてしてこの満足感も絡んでくる。
金銭的な、実利的な利益にはならない。
でも、それを度外視して為したいことがある。
たいていの義挙・ボランティア・福祉活動とはそうしたものだろう。
その満足感を理由にして追放がなされている。
能力が足りないからでもなく、性格が合わないからでもない。
単に、追放した者がどう落ちぶれていくのかを見る。
そんな楽しみの為に、満足感を得るために追放する。
他人の成功を憎む。
それは、他人の滅亡や失態を望む。
それと同じものだろう。
厳密に言えば大きな違いがあるかもしれないが。
他人の不幸を望むという事に違いは無い。
そうした理由で追放をした者達である。
ヒロトシによる成功に怒りをおぼえるのは当然だ。
それくらい追放された者達の成功は大きなものになっていった。
落ちぶれて惨めに人生を終えると思われた者達。
それが、迷宮で成果を得て、十分以上の成功を得て戻ってくる。
一回の探索で、一人あたり何十万円、何百万円という利益を得る。
望んだのとは違う結果になり、腹を立てる者達も出てくる。
もちろん、これは他人の失墜を楽しもうとしてる連中が悪い。
人の不幸で満足感を得ようとしたのだ。
それが違った結果になったからと言って憤るなど、道理に反している。
ただ、この時点でも精神的な反撃を受けたのは事実。
追放した者達は追放された者達から、成功したという現実を叩きつけられた。
もちろん追放された者にそんなつもりはなかったが。
だが、不心得者達への精神的な一撃になったのは確かだ。




