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水際に種

作者: こうあま

本作は「#web夏企画 あの夏を幻視する」(http://un09.net/s2/ )に合わせて書いたものです。

お題は「沈黙」「暁」「かかげる」です。

 アルバが幻視していた美しい町、あるいは無残に損傷した廃墟は、そのどちらでもあり、どちらでもなかった。

 瓦礫はあちこちに散乱しているもののどれも角がとれ、割れた窓はあっても鋭いガラス片は見当たらなかった。むき出しの鉄筋なんかは、元々が石造りの古い町だからあるはずもない。元は家具かなにかであったのかもしれない木片はわずかに見かけても、ことごとく朽ちたあとだ。

 ところどころにある半壊した石造りの建物のそこかしこから、ぽつぽつと緑が見える。

「……思ってたほど、ひどくないような」

 アルバは知らず安堵のような息を漏らしていた。足元の濡れた石畳が、太陽の光で輝いている。

 数十年かけて徐々に水に沈みつつあったところに、とどめを刺すような大波の被害を受けてから、更に十年。被害の生々しさはとっくに風雨と波でさらわれてしまったのだろう。ひとがこの地を放棄してからの月日を、植物の広がりが静かに語る。

 見渡そうとするまでもなく、視界の先には豊かな海が見える。

 大波から数年後の地震で地盤沈下を起こした地帯まであるらしく、町の一部は水没していた。大きく傾いだ建物の残骸が、透明度の高い水のうちにあるのが見えた。

 アルバは水際の道を、うろうろと歩く。うっすら冠水しているのが当たり前だという風情の石畳は非現実的で、ぱちゃぱちゃといとけない足音を返すので、アルバは少しばかり楽しかった。この地方には古くから水弾きの魔法が伝わっていたというけれど、毎日のように足元から湿った音を聞くのはさすがに鬱屈してくるものなのだろうか。よそ者にはわからない。

 角を曲がると、ふいにひらけた前方に、丸まった人影がひとつ見えた。地面に屈んでなにやら手を動かしている。黒髪のうえにゆったりとした薄手の黒い服で全身を包まれていて、シルエットも手元もはっきりしない。

 浮浪者だろうか。

 来た道を引き返そうとしたとき、人影がだしぬけに顔を上げた。そして、ばちりと音を立てたのではと思うほど完全に、目が合った。

「あら」

 黒ずくめの色彩のなかに、ほっそりした首筋を浮かび上がらせる、若い女だった。

 アルバはとっさに、懐に携えていた短杖を取り出す。旅行者が行使する苦肉の策としてまずまずの対応、と内心で思うと。

 女は軽やかに笑った。

「その杖は治療用でしょう」

「え」

「こんな怪しいやつのことなら欺けると思った?」

 教会の人間でもなさそうなのに、一瞥で杖の機能を見抜くとは。とアルバが動揺しているうちに、女は立ち上がった。

 だぼだぼした七分袖の上衣に背負ったリュック、ぴったりしたボトムスとそれを覆う長い雨靴、そして黒髪と黒目――肌を除いて全身が黒い。

「警戒しないでいいよ、わたしはひとからはなにもとらない」

「ひとからはって……」

 女は肩をすくめ、小首を傾げてほほ笑んだ。

「ここ見ればわかるよ」

 ちょいちょい、と足元を指さす。近づくまでもなく、草が生えているのが見える。だがそれでは判然としないので、アルバはちょっと考えたのち、杖をしまい、歩み寄ることを選んだ。

 屈み直した女の細い指が、やわらかな手つきで茎の先の膨らみを摘み取った。

「……ひょっとして植物の実を?」

「ん、正しくは種を」

「種……」

 よく考えてみれば、海水に晒されるところに植物が育っているだけでも、驚きだった。実を付け種が取れるほどだとはなおさらだ。水草の類には見えない、よく知る「植物」に近い形態をしていた。煉瓦の隙間に根を張っているらしく、細長い葉を伸ばしている。それに紛れるようにいっそう細いかたちをしたものが茎で、その先端で膨らんでいるのが、実であるらしい。

「こんな海水が寄せるところで、海藻でもない植物が育つのね」

「まさに進化というやつなんじゃない? 陸上植物と海洋植物のあいだの環境に適応した新しい植物だ」

 女はまっすぐな黒髪をかき上げて、耳にかける。

「近ごろになって急激に、結実が良くなってきてる。海草は従来、堆肥か塩の製造にしか使わなかったものだけれど、実も種も肥大してきて、食用や栽培の研究ができるくらいになってきた」

 細長く膨らんだ実を割ると、中には規則的に並んだ丸い粒が収まっている。なるほど、種と言われれば納得できた。

「種ってことは栽培するのよね。……この種は採取して良いの?」

 お、と感心したような声が、女の口から漏れる。

「杖なんか持ってるわりに、よく知ってるじゃない。じき法の対象になって、規制されるかもね。魔法もバレないのはいまだけだ」

 軽やかな語り口に乗るのは軽やかな情だ。アルバはなんと答えていいものか迷った。

「それより、ここでひとに会うのは珍しい。廃墟が好きなの? たまにそういうマニアックなひとが来るのには出くわすんだけど」

 ぷち、と音を立てて茎と実が離れる。

「来てみたかったの、前から。……別に廃墟が好きなんじゃないけど」

「じゃ、観光客か」

 その物言いには異があったが、うまく唱えられない。

「……まあ、休暇なのは確かだけど」

「普段はなにをしているの? シスター?」

「ちがうわ」今度はきっぱりと、反射的に答える。「シスターなんかじゃない」

 うっかり語気を強めてしまった、と内心苦く思うアルバを意に介することもなく、女は再び立ち上がった。

「ところでさ、気づいてる?」

 採取した実を丁寧に布で包むと、口の端を上げた。

「そろそろ潮が満ちてくる。引くまで、この道を戻るのはけっこう危ないよ」

「え、うそ」

「まあ、数時間後にはまた通れる。どうせならゆっくりすればいいよ」

 なにをどうゆっくりすれば良いのか。そう思ったのが顔に出ていたらしい。女がくいと指を動かした。

「もうしばらくしたら、ここもあなたの靴が惨事になっちゃうくらいには海水に浸かる。そしたらわたしはあのへんで休憩するけど」

 指さす先には、目線の高さより少し上に、ゆるい傾斜の屋根がある。そこへ上がるくすんだ白い外階段も一緒に見えた。

「話を聞かせてよ、観光客さん」

「……アルバよ」

「わたしはマルテ」

 マルテの黒目が輝いた。


 屋根に上ると、マルテは背負っていた荷物を下ろす。マルテに比べれば軽装のアルバも同じようにした。

 マルテは座り込み、包んでいた布を広げると種の写真を撮り、次には透明な容器に入れ直してから、携帯端末をなにやらしばらく操作していた。その手が止まり、端末を放り出してごろりと寝転んだところを見計らって問いかける。

「あなたは農家?」

「いや、栽培は家庭菜園レベルだね。どっちかというと趣味の研究者かな」

「この実は食べられるの?」

「食べられるよ。いまここでかじったら、塩味しかしないけど」

 食べてみる? と笑って容器を掲げる。アルバは手を振った。

「種の研究をしてるの?」

「まあ、そう。増殖魔法をかけてみたり、拡大魔法を試したりしながら」

 マルテの言葉に、鞄を探っていた手が止まる。

「……それ、いいの?」

「いいのいいの」

「種子採取も魔法組み換え植物の研究もライセンスがないとだめだと……」

「ほんと詳しいね。だから研究登録もしてるよ。まあいまの場合は正しく言うと、この種自体が規制リストに登録されてないからいいってことなんだけど」

 それに個人消費の範疇なら自家増殖も良いんだよ、と付け加える。

「登録って、個人の趣味で?」

「そう、個人の趣味で」

「……すごいのね」

 変わったひとがいるものだな、とアルバは思う。

 何十年も昔の法改正で、国家による種子の保護は解除され、民間企業に大きく開放されることになった。すると、種子は多国籍大企業による研究改良と同時に、育成者権による私有化が起き、採種の規制と画一化が進んだ。結果として固定種や在来種はバックアップを失い、多様な種とそれを育てていた零細農家はどんどん淘汰された。

「まあ、好きでやってることだからね」

 種の集約による飢饉の恐れなど状況を危うんだ意見が高まって、また国際条約の後押しもあって、法律が再度変わったのが数年前のことだ。私有化できる範囲が制限され、一定の条件と手続きを満たせばマージンなしの種子採取が認められるようになった。いくつかの自治体で種子バンクからの貸し出しを促進する仕組みが導入され、固定種の復興もいくらかみられるようになった。

 やれ登録だ証明だと、手続きまみれですっかり窮屈な世の中ではある。それでもいまは、巨大資本と地域社会が少しは擦りあわされたという点では、ようやく訪れたわずかにマシな時代かもしれなかった――種は誰のものなのかという、もっとも根源の問いを置き去りにしたまま。

 マルテは「それに」と笑う。

「シスターでもないのに治療杖を持ってるのだってすごいことじゃないの? ずいぶん珍しい」

 アルバは水筒をあおってから答えた。

「……福利厚生なの、うちの工場の」

「工場?」

「治療杖の生産をしてるのよ。わたしはそこで祈りを込める仕事をしてる」

「へえ!」

 黒い目が、興味深そうに見開かれる。

「当たり前だとわかってても、改めて当事者に会うとちょっと面白いね」

 そう、いまどき当たり前だ。種に負けず劣らず、魔法の生産や流通だって大企業が管理している。古来には地域ごとにたくさんの種類があったという魔法たちは、彼らがパッケージ化したものを除いてとっくに廃れてしまった。かつては完全一社独占だったところに、ベンチャーが参入し、ようやく競合といえるものが育ち始めて、少しは多様になってきたけれど――それも種に似ているなと思う。それでも失われて二度と戻らないものがたくさんあるところなど、特に。

 昔は学校でその地方ごとの魔法の実技を習っていたというけれど、いまは全国共通の内容を、歴史と現代社会の座学として習うだけだ。だから魔法を使うには、その授業にも出てくる某大企業の提供する講習を受けなくてはいけない。非魔法主義者たちが好んでいた、自動車の免許みたいに。

 治療杖の文化も似たものだった。しばらくは各地の教会が作り続けていたけれど、やがて全国教会が工場を立ち上げて、教会ごとには生産されなくなった。

「クレームはあるわよ、けっこう」

 古来の慣習で治療魔法を教会が独占しているのだって、最近は批判が強い。果たして今後いつまで続くかどうか、だ。

 だがマルテはまったく逆の意味の「クレーム」を想像したらしい。

「けしからんって?」

 そして、そちらも正しかったので、アルバは訂正しなかった。

「そうそう。工場生産で、全体的な質は上がったんだけどね。均一になったというか術者を選びにくくなって」

「最近の治療杖は耐久性があるっていうよねえ」

 寝転んだまま伸びをする。

「工場とは言うけど、雇用主としては教会でしょ。なにか興味があって就いた仕事なんじゃないの? ……と、ごめん」

 屋根に放り出していたマルテの携帯端末が震えた。伸ばした手を視線で追いかけて――目に入る。

 マルテがなにか通話をしているあいだ、アルバは沈黙してそれをじっと見つめた。不躾だとわかっていて、目が逸らせなかった。

「失礼。……ん?」

 通話を終えたマルテが目線の先を追いかけるようにして、自らの腕に目を落とす。

「――あ、気になる?」

 七分丈がめくれてちらりと覗いた腕に、腕に沿って長く一直線につけられた傷跡がある。切り傷の、盛りあがった跡だった。

 アルバは、謝ったり萎縮したりしないマルテにほっとした。同時に、謝れない自分には、良いも悪いもつかない複雑な感情を抱いた。

「ねえマルテ」

 アルバの明るい茶色の髪が、潮風に吹かれて揺れる。

「教会についてって話だけど……変なことを言ってもいいかしら」

「いいよ、旅行客だもん。旅は道づれ、旅の恥はかき捨て」

 アルバはちょっと苦笑し、すぐにやめた。潮はとっくに満ちて、マルテの黒い瞳からの逃げ場はどこにもない。それで都合が良いと思った。

「……昔ほんの少しだけね、シスターだったのよ。学校を卒業してすぐのとき」

 治療杖をそっと握る。

「配属されたばかりのころに、あなたのように傷のあるひとに、どう思うかって訊かれたの。自分を傷つけることや……死にたいと願うことについて。それでわたし、『そんなひとはたくさんいます』と答えて」

「そんな答えをしたの?」

 思わず噴き出すようにして笑われた。その態度に、むしろ救われる。アルバも大げさに答えた。

「そんな答えをしちまったのよ。そりゃもうこじれたわ……いま考えれば当然ね。そのひとが求めるような答え、寄り添った答えではなかった。役割にふさわしくなかったのも、いまならわかる」

 ふう、とひと息つく。風がごうごうと吹けばよいと思った。静けさなんて用意されなくていい、吹き飛んでいくような雑談のままがいいと願う。

「でも……あれは本音だったと思う、いまでも」

 たとえいま問われても、自分はそうとしか答えられないだろう。正しい答えなんて、結局わからないままだ。

 いや、わかろうとしないで、拒否しているのかもしれなかった。

「……求められた答えをするって、きっとひとの助けになる。でもなんてむなしいんだろうって、わたしは感じているみたいなの。わたしは教会の仕事を誤解していた。あのときのわたしはシスターとしてふさわしい言説をすべきであって、正直にとか対等にとか、言いたいことをそのまま言ってしまうなら、それはシスターではなく『隣人』のやることだったわ」

 アルバの脳裏には、いまでもあのときの声と表情が残っている。

 『彼女』はアルバをシスターとして試しつつ、寄り添った言葉を求めていたのだ。

 アルバはあのとき確かに、どうしてそんなことを問うのだと感じた。初対面の相手に、そんな気の引き方を、情の求め方をするのが隣人への適切な態度なのかと。そしてどこかで、くだらない、あるいはうんざりする質問だと判じた。わかりあいたいのならば、もっと初対面に適切な距離感と言葉選びがあるだろうと。

 アルバが悪かったのだと、いまは思う。シスターとして適切な距離感と言葉選びをしなかったのは、アルバのほうだった。

「わかっているのだけど……結局ずっと、求められたことしか言えない、役割の範疇でしか言動が許されない立場というものに、馴染むことができないのね。だからわたしはシスターに向いていないと思って、工場に異動させてもらったの」

「ふうん」

「でも……どう答えればよかったのかなって、あなたを見て思ったわ。思い出しちゃった」

 マルテは笑っている。意を含まない笑みだった。

「ねえ、不躾ついでに教えてもらってもいいかしら。あなたなら、どう答えられたい?」

「わたしはその問いはしてないけどね」

 そして、しない。

 肩をすかす動作にそう言われているようで、そこにマルテの意思を見る。

「そうだけど。仮に、の想像が聞きたい」

 マルテは傷に手を這わせ、しばし考えるそぶりをした。それが腕組みに変わる。

「んん……やっぱり答えはないな。でも、それが知りたいってことはさ」

 そして、ほほ笑んだ。

「求められた応答をしてあげたいと思っているのもアルバの本心なんだね」

 求めたとおりの潮風が吹く――ごうごうと。水際より種を飛ばし、やがて祈りを芽吹かせる風が。

 アルバはひたすら風を受け止めてその果てで、ふかふかとした優しいところに小さなひとつの種がたどり着いたさまを夢想した。

「そ……」

「そ?」

「それは考えたことなかった……はじめての意見だわ」

 呆然とした言葉に、マルテが大げさな声で笑い返す。

「じゃあアルバ、いまわたしにどうしたいと感じる?」

「……シスターとしては答えられないわ」

「隣人としてだよ。シスターだって、隣人だし」

 アルバはしばらく考え、素直な答えを探り当てる。ほんとうにふさわしくないな、と思いながら。

「……治療杖を振ってあげたいと感じるわ」

 またも、そして予想どおり、マルテは盛大に笑った。

「アルバ、ほんとに向いてないんだね」

「わかってるわよ、悪かったわ」

「いやいや、いいと思う。あなたは隣人として魅力的だよ」

 マルテはアルバの手からさっと杖を取りつつ、袖をまくる。あらわになった傷に向けて軽く杖を掲げると、魔法を行使した。

 傷跡にはなにも変化がない。当然のことだった。古傷を癒す祈りなんて込められていない。魔法を一回分無駄に消費した杖を、マルテは再びアルバの手に戻した。

「せっかくなら杖を振るうところより、祈りを込めるところを見てみたい」

「ええ? 工場はもっぱら新品を作るのよ。昔の教会仕事じゃないんだから、修復はしたことないわ」

「やってることは同じでしょ?」

「……というか、それよりなぜ治療魔法が使えるの? 教会で独占しているはずよ」

「まあまあ、いいじゃない。ほら」

 アルバはうろたえる。それを意にも介さぬ、からりと明るい声が続く。

「アルバは勤勉なんだね。シスター上がりなのに……って言うと失礼だろうけど、種苗の法律のことなんかも知ってて。多少は騒ぎになったと言っても、しょせん関心があるひとのあいだだけの話だったからね」

 声色がだんだん落ち着いていく。黒い瞳の柔らかさと静けさに従うように。

「種に限らないけど……そういう世の中のもろもろを知れば知るほど、清廉でいるのは難しくなるだろ。世の中どっちを見ても複雑だし、それこそ正直者でいるだけでばかを見て」

 マルテのくちびるは、ごく薄い円弧を描いていた。

「それでも折れずに日々ちゃんとひとを癒すための祈りが込められる。シスターはできなかったとしても、すごいことだ」

 それができなくなってきていたからの休暇なのだとは、言えなかった。

 マルテの言ったとおりだ。

 日々の雑事や世の中の動きに疲れ果てて、以前ほどうまく祈りを込められなくなった。なにが工場仕事だ、と呆れるとともに、諦めきれない自負があることも気づいて、休暇を取ったのだ。

「ねえ、マルテ」

「ん?」

 目を伏せ杖に祈りを込める。

 わずかに淡い光を杖が帯びる。光が消えると、ひび割れていた魔力が修復されたような気配を手から感じ取った。種から新芽が出たような心地だ、と思う。

 おお、と小さくマルテが感嘆した。

 目頭のあたりがざわざわと、喉の奥あたりがむずむずとする。

 祈れなくなったからの休暇だなんて、言えないんじゃなく、言う必要がない。

「……休暇っていいね」

 ひとに休暇が必要なのは、当たり前のことだ。リフレッシュしてまた勤めに戻る、ただそれだけのありふれたことなのだと思った。そう、日々どっちを見ても複雑で、目まぐるしく怪奇にかたちを変える――それ込みで「いつもどおり」の日々に戻れるはずだ。もちろん『彼女』のように、そういうふうに生きられないひとはいるにしても。

 マルテはやはり笑った。

「そりゃあ、そうだろうね」


 話をしているうちに潮は満ち、そして引いていったらしい。「そろそろ引き潮だ」とマルテが言う。

「この季節はね、明け方と、いまくらいの時間が干潮なんだ。昼間と夜更けに満潮が来て」

 夕方と呼ぶにはまだ早いが、それなりの時間が経っていた。

「わたしは明け方のこの町が好きだ。潮が引いたところに暁が町全体を照らして、葉末の露がそれはもう美しくきらめいていてね。いまの時期、夕暮れは引き潮じゃないから」

 荷物をまとめ直しながら、マルテが問う。

「アルバはこの町のなにに惹かれて来たの?」

 その口調の静けさに、わけもなく惹かれた。胸が切なさを一瞬、訴える。

 アルバは胸に手を当てる。頭になかった答えが、自然と口をついた。

「自分でも動機がわからなかったけど……行政から無責任に捨てられた町に、惹かれるかどうか確かめに来たのかも」

「で、どう。惹かれた? 残された嘆きや憤怒でも感じる?」

「……まったく感じなかったとは言わないけれど、どちらかというと――静けさと、美しさを感じるわ。わたしも暁のこの町を見てみたい」

 奪われた夏の幻視よりもずっと価値のあるものを捉えたと思う。

 新しい種が育つところを知りたい。あの細く膨らんだ実の食感を味わってみたい。マルテの菜園と研究室を見てみたい。

 口に出さない願いは、わずかに遠ざかった海へと流す。

「じゃあまた来ればいい。次は明け方に」

「ふふ、そうね」

 新たなる夏を幻視する。

 小さく豊かな菜園に、黒ずくめの女がまぶしい笑顔で立っている。

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