───聴かせて、君の音を。
───音には、感情が乗る。
何度、そう言われたことだろう。
特に分かりやすいのは怒っている時らしい。らしい、というのは自分自身ではイマイチ分からないからだ。
俺───響音 秋斗は、誰もいない、静まり返った部屋の中でピアノに向かい合っていた。
ピアノ───正式名称『ピアノフォルテ』の由来は、『強弱をつけられるチェンバロ』だ。
チェンバロとは何かと聞かれると、説明が難しい。何故なら、俺は実物を目にしたことがまだないからだ。
いかにも本で知りました、という知識をあげさせてもらうならば、チェンバロは撥弦楽器───爪で弦を弾くことによって音を出す楽器だ。ここでいう爪は、ギターを弾くときに使うピックを思い浮かべてくれればいい。
ちなみにピアノはハンマーで弦を叩いて音を出す打弦楽器に分類されている。チェンバロとピアノの見た目は近くても、音を出す原理が違うのだ。
ともかく、チェンバロは強弱がつけにくい。
───強弱の変化に乏しいという不満から生まれたのが、弱い音も強い音も出せるチェンバロ。現代のピアノなのだ。
俺は別に、己の知識をひけらかしたいわけではないし、ピアノが好きで好きでどうしようもないのかと聞かれれば、首を傾げるだろう。
ならば何故、今ピアノの前に座っているのか。
───俺自身にも、分からない。
分からないけれど、登校する前にピアノに触れるのは俺の毎朝の日課だった。
カバーをめくり、蓋を持ち上げる。使い込まれた譜面は、わざわざ目次を見なくとも目的のページを開いた。
鍵盤に指をのせ、弾き始める。
弾きなれた曲の譜面を目で追っていると、自然と思考が過去に彷徨いだした。
───俺がピアノを始めたのは、三歳の頃だ。
物心ついた時にはすでにピアノを弾いていたため、よく聞かれる『ピアノを習い始めた理由』については答えようがなく、いつも適当に誤魔化してきた。
『ピアノを続ける理由』については、もっと複雑だ。
確かに、難しい曲が弾けるようになるのは嬉しいし、まわりから褒められるのも悪い気分ではなかった。
───けれど、それだけだ。
これまでずっと、十二年もの間ピアノを弾いてきて、心から『楽しい』と思ったことはあったのだろうか。
ただ、言われるがまま弾いて、言われるがまま表現して、言われるがまま続けてきただけではないのか。
───本当は、気付いているんじゃないのか。
認めたくないものから、目をそらしているだけで。
「───」
ピアノを弾く指の動きが狂い、不協和音が生み出された。
「……ひどい音だな」
ぽつりと呟く。その呟きに、言葉を返す人などいないと分かっているのに。
俺はため息をつき、中断した曲を再開しようと───、
『───ほんと、ひどい音』
どこからともなく声がして、俺は周囲を見回した。だがここは自宅で、両親も仕事に行っているので今は俺しかいないはずだ。
おそるおそる後ろを振り向くと、そこには制服姿の美少女が立っていた。
───誰だ。いやそれ以前に、侵入者だ。警察に通報したほうがいいのだろうか。でも、まずはどうすれば。
混乱する俺を余所に、見知らぬ少女はいつの間にかピアノに近付いていて、鍵盤を眺めている。音を出そうとした少女は、寂しげな表情を浮かべると手を引っ込めた。
その寂しそうな顔を、どうにも放っておけなくて。
数秒前まで通報を考えていたことも忘れて、俺は声をかけていた。
「……あんたは、誰なんだ?」
『私は………アリア。呼び捨てでいいよ』
外国人みたいな名前で、俺は微かに眉を上げた。美少女と言っても、アリアの顔貌は日本人のそれだし、髪の色も艶のある黒だ。
不思議に思ったが、すぐにどうでもいいと切り捨て、俺は次の質問をした。
「何でここにいるんだ?どうやって入ってきた?どこの学校に通って……」
『わ、待って!ちょっと待ってってば!』
矢継ぎ早な俺の質問を遮って、少女───アリアは胸の前でぱたぱたと両手を振った。
俺が黙ると、アリアは考える素振りを見せつつも素直に質問に答えた。
『ここにいる理由は、呼ばれたから。普通に壁を通り抜けて入ってきたし、学校は……』
「ま、待て。待てって!」
聞き捨てならない点があり、さっきのアリアと全く同じように話を止める。
「呼ばれたってどういうことだ。それに、壁を通り抜けたなんて馬鹿げたこと、信じるとでも……」
『───これでもまだ、信じられないかな?』
馬鹿馬鹿しいと否定しようとした俺の手に、アリアが触れた。───否、触れていない。
すうっと、何の抵抗もなくアリアの白い指が俺の皮膚を、肉を突き抜けた。
痛みも、それどころか触れられている感覚すらない。
指が引き抜かれても、痕は残っていなかった。
「ゆ、幽霊…なの、か……?」
掠れた声で問うた俺に、アリアは難しい顔をして首を横に振った。
『幽霊じゃないけど……何なのかは私にも分かんない。霊体?』
さっきまで気付いていなかったが、よく見るとアリアの足は宙に浮いている。
状況を整理しようと頭を抱えた俺の前で、アリアは小さく『あ』と声を上げた。
今度はなんだという気分で顔を上げると、
『時間、大丈夫?制服を着てるってことは、学校に行くんでしょ?急いだほうがいいよー』
……。
…………。
………………遅刻だ。
ピアノを弾く時間の分、早く支度はしている。でも、弾いた上に呑気にしていれば、遅刻は必須。
誰のせいだと文句を言いつつ、鞄を掴んで車庫から自転車を引っ張り出した。
「よく分かんないけど、とりあえず俺は行く。それじゃ」
『何言ってるの?私も行くよ?』
「は?……はぁぁぁ⁉」
こぎ出した自転車のすぐ横を、アリアが追走している。───訂正。走っているわけではない。走っているわけではないのに、ふわふわと前に進んでいるのだ。
しかもその速度が尋常ではない。自転車はそれなりのスピードで走っているにもかかわらず、遅れることなくついてきている。もはや恐怖でしかない。
なるべくアリアのことを意識しないようにして全力でペダルをこぎ、俺はクラスの朝会が始まるギリギリ前に教室にたどり着いた。
***
───星影中学校、これが俺の通う中学の名前だ。
うちの中学校は四階建てで、一階は音楽室や家庭科室などの特別教室がある。二階は教務室がある他、三年生の教室になっている。三階は二年生、四階は一年生の教室だ。
一応言っておくと、俺が現在いる教室は二階である。
『へー、こういうふうになってるんだー』
頭上から能天気な声が聞こえ、俺は静かにしてくれ、と言いたい気持ちを懸命に抑えた。
俺の頭の上ではアリアが浮かんでいて、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしているのだ。鬱陶しくて仕方がない。
文句を言おうにも、アリアの姿はクラスメート達からは見えていないようで、仮に会話すれば俺は大きな声で独り言を口にする変人として見られるだろう。漫画等ではよくあることだが、実際に起こると全く笑えない。
「何なんだ…本当に……」
耳をふさいでアリアの声を遮断し、俺は数学のノートに今朝の出来事をまとめていた。
数学の授業中だが、教師の声は全然耳に入ってこない。耳をふさいでいるのだから当たり前だが。
───朝っぱらから少女の幽霊(?)に出会い、そいつが俺のまわりをつきまとっている。
…文章化しなければ良かった。
あまりに非現実的すぎて、俺は机に額をつけ、髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「ふざけるなよ……俺の平和な日常を壊すな……」
嘆息し、僅かに顔を持ち上げると下敷きにしていたノートが勢いよく引き抜かれた。
そういえば、延々と響いていた教師の解説も途切れている。
嫌な予感とともに見上げると向けられたのは、中年の男性教師が浮かべる満面の笑み。
…あの先生、どす黒いナニカが笑顔の裏に見えるんですけど。
そんな感想を述べる間もなく、俺は先生に『最高学年になったのだから』的な内容を懇々と説教されたのだった。
***
ようやく先生の説教タイム&一限の授業が終わり、俺はぐったりとしながら教科書を片付けていた。
『怒られてるところ、面白かったよ』
「誰のせいだよ、誰の」
笑いを堪えている様子のアリアに、遠慮の欠片もない返答をする。いい加減なれてきた。
十五分間の休憩時間、次の授業は音楽で移動しなければならないので、教室には俺とアリアしかいない。
「……音楽、か」
別に楽しみではないが、頭を使わなくてすむから楽ではある。───特に、こういう疲れた日は。
『音楽、嫌いなんだ?』
「…分からない。……もう行くぞ」
アリアをせき立てて、俺は何をやっているのだろうと疲れた吐息を零した。
***
三年生になってから一ヶ月しか立っていないということで、音楽の授業はレクリエーション…とまではいかないが、それに近いものが行われた。勿論、音楽に関係する遊びである。
「ピアノの音を聞いて、何の音か当てて下さいね」
今年異動してきたばかりの若い女性教師は、一音だけ鳴らした。
幼いころからピアノを習っている俺には、何の音だか分かる。少し簡単すぎるくらいだ。
「分かった人は?」
俺を含め、数人が手をあげる。廊下側の席の人から順番に答えを言っていくが、どれも不正解。あっという間に、俺の番がきた。
「はい、ええと…響音秋斗さん、答えは?」
「『レ』です」
教師は驚いたように目を瞠ると、正解、と言った。クラスがざわめく。
先生は同じことを数回行ったが、俺は全て正解した。
「ピアノ、習っているの?」
「───。……はい」
頷くと教師は嬉しそうに笑い、続けた。
「そっか。───ピアノ好きなんだね」
その言葉に、俺は無言のまま席についた。教師は訝しげな顔をしたが、深く詮索しない選択をしたらしい、次の話を始めた。
『───ね、今のどうやったの?』
ふよふよと漂いながら眺めていたアリアが声をかけてくる。俺はしょうがないと諦め、囁き声で返した。
「どうやったっていうか……正確な音を聞くと、『ド』の音だったら『ド』って言っているように聞こえるんだ。『レ』だったら『レ』って聞こえるし」
多分、赤ん坊が親の言葉を聞いて覚えるのと同じようなことだと思う。小さいころからピアノの音を聞いていたから分かるようになった、それだけのこと。…良いのか悪いのか、微妙なところはあるが。
デメリットの例をあげるなら、歌等で音程がずれていれば気になって仕方がないことだ。ついつい指摘してしまい、気まずい雰囲気にしてしまったこともある。
『んー…私には分からない感覚だなー』
アリアは難しい顔でそう零すと、パッと表情を変えた。その切り替えの早さについていけない俺にむかって、
『そういえば……響音秋斗って言うんだね、君。……何て呼べばいい?』
何を今さら、と考えてから、アリアの名前は聞いていても、俺の自己紹介はしていなかったことに気付く。
「響音でも秋斗でもどっちでもいいよ。好きに呼んでくれ」
『じゃあ、秋斗』
「……普通は『さん』とか『君』をつけるもんじゃないのか?」
いきなりの呼び捨てに苦言を呈すると、アリアはやたらキラキラした笑顔を浮かべて、少し高めの声で言った。
『おはよっ、秋斗君!───とでも言われたいの?』
「………秋斗でいい」
一瞬みとれるほどに可愛い表情を見せたアリアは、すぐにもとの声の高さに戻した。
熱をもった頬を隠すように顔をそむけると、アリアは宙を移動してのぞき込んでくる。───面白がっているのだ。
ちらちらと、隣の席に座っている女子がこちらに視線を向けてきているのを感じながら、俺は音楽の授業なのをいいことに、囁き声での会話を続けたのだった。
***
昼休み、俺は立ち入り禁止となっている屋上に寝っ転がり、盛大なため息をついていた。
『ため息をつくと、幸せが逃げるらしいよ』
「ため息をつきたいときにつかないでいるほうが、フラストレーションが溜まって幸せが逃げていくと俺は思うぞ」
大の字の俺の真上にぷかりと浮かび、日光浴の邪魔をしてくるアリアに適当な返事を返しながら、俺は時刻を確認した。
中学に上がった際に両親にプレゼントされた腕時計。
目立つ装飾はなにもない、至ってシンプルな時計だが、俺としてはかなり気に入っている。
「もうこんな時間か。……昼、食べるか」
両足を上に伸ばし、勢いよく振って生まれた力を利用して起き上がる。
うちの中学に給食はない。昼食は個人で弁当を持参するしかない、のだが。
『……真っ白』
「空っぽよりはいいだろ」
広げた弁当───二段の弁当箱には、ぎっしりと白ご飯がつまっている。
梅干しがのっていたり、ふりかけがかかっているわけでもない、完全な白一色。
『………秋斗は、ご飯そのものが好きなの?おかずとかないほうが、お米本来の風味が味わえる…みたいな?』
「いや?むしろ白ご飯苦手だし、おかずと一緒に食べたい派。それに、これはご飯そのままじゃない」
『…何?ご飯の下におかずが入ってるとか?』
アリアの発想はなかなか面白いが、残念なことに違う。俺は弁当を入れている小さなバッグから小さな紙包みを取り出した。
「───このご飯には塩かけてあるんだ。食べ進めてるときに塩分が足りなくなったら、包みの塩をふりかけてだな……」
『………そこまでで大丈夫』
「そうか?」
何故かアリアが黙ってしまい、俺は黙々と塩ご飯を口に運ぶ。さほどたたないうちに、弁当箱は空になった。
弁当を片付けた俺は再びごろりと横になり、青空を見上げた。
春の日差しはぽかぽかと暖かく、すぐに両瞼が重たくなってくる。
『今寝たら、授業に間に合わないよー』
「んー…」
呼びかけてくるアリアの声に、肯定とも否定ともつかぬ唸り声で答え、俺の意識は眠りへと沈んだ。
***
『……ねぇ、ねえってば』
穏やかな眠りから現実に引き戻す声がし、俺は安眠を妨げてくる相手の顔を見ようと、うっすらと目を開けた。
黒髪の美少女の顔が、息がかかりそうな近さにあって俺は慌てて飛びのいた。
「ア、アリア!近いって………は?」
───文句をつけようとした俺の視界に映る景色が、オレンジ色に染まっている。
夕日。
慌てて時計を見ると、五時半を過ぎていた。弁当を食べ終えたのが一時半ごろだったので、四時間も寝ていた計算だ。
五、六限もすっ飛ばしてしまったことになる。
「やべ、とりあえず早く帰らないと……」
焦る俺に、二人の声がかけられた。
「───それは無理だな」
『秋斗…それは無理みたいだよ』
アリアの声は勿論分かるが、もう一人は。
数学の授業のときの比ではない『嫌な予感』が背筋を走り、俺はギギギ、と音がしそうな動きで振り返った。
一人じゃ、なかった。
俺のクラスの担任に五、六限の担当教師、さらには生徒指導の先生までもが並んでいた。
───終わった。
俺は長丁場を覚悟して、先生達に向き直った。
***
───試練の時は長かった。
四人が代わる代わる言いたいことを言っていき、俺はひたすらスイマセンと謝っていくのみ。
「数学の時間も授業に集中していなかったと聞いたぞ。……響音、お前どうした?今日のお前は響音らしくないぞ」
最後のほうは心の底から心配されてしまった。
それもそのはず───これまでの俺は真面目に授業を受けていたし、屋上に来ることもほとんどなかった。先生が不自然に思うのも当然かもしれない。
悩みがあるなら聞くぞとも言われたが、霊体の美少女がすぐそこに浮いてますと話しても誰が信じてくれるだろう。
約一時間ほどで解放された俺は、ぐったりと自転車に乗って帰ってきた。もちろんアリアも例の不思議移動法で、だ。
「疲れたぁ……」
玄関に入ると、夕飯の良い匂いが漂っていた。
母親は朝は早いかわりに、あまり遅くならずに帰ってくる。それでも俺のほうが早いことが多いのだが、今日はティーチャーにこってりと絞られていたため、母の帰宅までに間に合わなかった。
父は…夜中まで帰ってこないことがほとんどだ。なので、夕飯は俺と母の二人だけで食べる。
夕飯を食べ終え、風呂に入ってから自室に向かうと、アリアが部屋を観察して───いるかと思っていたのだが、意外にも大人しく隅っこのほうで膝を抱えていた。
「…何してるんだ?」
『───。…ちょっと、考え事』
アリアが静かに考え事する姿など初めて見た。
内容を聞いてみたい気もしたが、何だか彼女の表情に翳りがあるように思えて。
俺は迷った末、部屋の隅───アリアの隣に腰を下ろした。
「───なぁ、どうしてアリアは俺にしか見えないんだ?」
本当は、何故霊体という状態になっているのか聞きたかった。
けれど───人間の体と魂部分が分かれるなどということは、それ相応のことがなければ起こらないはずだ。
アリアは幽霊ではないと否定したから、死者ではないにせよ───何かがあったのは間違いない。
アリアの心の奥深くに、ずけずけと土足で入っていく勇気は俺にはなかった。
『………言えない』
「…そっか」
───だから、俺は無理矢理聞き出そうとはせずに、ただじっと隣にいた。
***
どうやら、思った以上に疲れきっていたようで、俺はその状態のまま寝入ってしまったらしい。
目覚めると既に朝日が昇っていて、横にいたはずのアリアの姿はなかった。俺は立ち上がって強張った全身をほぐし───はたと気が付いた。
「宿題、やってない」
───結論を言おう。
宿題は、終わらなかった。
それどころか、時計を見るのを忘れたせいで一限の授業に遅刻し注意され、宿題を提出しろと言われて終わりませんでしたと返し注意され。
挙げ句の果てに昨夜カバンの準備をしなかったせいで忘れ物が多発。当然こちらも注意を受けた。
クラスメート達の視線はさんざんなもので、休憩時間中、俺は人のいない階段の踊り場で、ようやく姿を見せたアリアに言った。
「アリアはいつまで俺といるんだ?正直、昨日今日とで俺の評価がダダ下がりだと思うんだが」
『───』
「せめて、俺につきまとってる目的くらいは教えてくれても……」
俺の言葉が途切れたのは、アリアの震える肩が目に入ったからだ。
自分の言葉を反芻してみて、俺は随分と無神経なことを言ってしまったと後悔する。
───今の問いかけは、目的があるなら考えるが、そうでないならいてほしくないと言ったのと同義だ。
『………秋斗は、私にいてほしくないんだね』
「い、いや……違うんだ。今のは俺の言い方が悪くて」
『───いたいから、一緒にいるんじゃダメなの?』
俯くアリアの声は、濡れていた。
霊体に涙を流す機能があるとかないとか、そんなことを気にする余裕もない。
───アリアを、泣かせてしまった。
予鈴が鳴るが、俺の耳にはアリアが啜り泣く声しか届かない。
不意に───アリアの姿が揺らいだ。
蝋燭の火がふっと消えるように、彼女はいなくなっていた。
ひとり残された俺は半ば呆然と、アリアがいたあたりの床を見つめる。
───こぼれ落ちた涙の痕跡すらも、見当たらないままに。
***
翌日。
朝の五時半過ぎ、俺は妙な胸騒ぎを覚えていつもより少しばかり早く目を覚まし、ひとりピアノの椅子に座っていた。
両親はとうに仕事に行き、テーブルには一人分の朝食が用意されているが、俺は水だけ飲んで料理に手をつけることなく、鍵盤の蓋を持ち上げた。
近所の人達も寝ているので弾くわけにはいかない。俺は音を鳴らさぬよう気を付けながら、鍵盤を人差し指でそっと撫でた。
冷たく滑らかで、それでいて温かみのある感触。
「───話があるんだろ、アリア」
俺は振り向かないまま、少し前までなかった気配にむけて、声をかけた。
後ろに立つ少女───アリアは身動ぎし、しばらく沈黙したのち言葉を発した。
『秋斗は……何でピアノを弾くの?』
突然の質問。俺は今までのように誤魔化してしまおうとして───やめた。
アリアは、俺の本心を聞くことを望んでいる。
なら、俺も可能な限り本音を───自分ですら目を背けてきた考えを、話そうと思った。
「…俺には、これしかないからだよ」
『これしか、ないから……?』
「───俺は、特別頭が良いわけじゃない。ズバ抜けて運動ができるわけでもない。手先だって器用じゃないんだ」
───そうだ。
言いながら、俺は自分で納得していた。
人付き合いもいいほうじゃないし、人前で喋るのだって苦手。
人と比べてショックを受けて、だからといって変えていこうと努力もせず。
「そんな俺が、唯一これだけは、って他人に誇れるものがピアノだったんだ」
まわりを見渡しても、三歳からピアノを続けている男子中学生はほとんどいない。もっと広い目で見れば山のようにいるのだろうが、少なくとも俺の周囲にはいない。
───そうやって、他者とは違うことができるのだと考えることで、俺は自分のちっぽけな自尊心を満足させてきた。
「俺は───ピアノを弾くことが楽しいから弾いてるんじゃない。自分が何も取り柄のない、つまらない人間だって思いたくないから、続けてきたんだ」
本心を曝け出して、俺は息をはいた。
───目を背けずにちゃんと自分に向き合えたと、そう思った。
───アリアを、失望させてしまっただろうか。
それだけが、気掛かりで。
『だから───』
無言で俺の言葉を聞いていたアリアが、顔を上げた。
『だから、あんなにひどい音だったんだね』
───ひどい音。
昨日の朝も、アリアはそう言っていた。
「ひどい音、か」
自嘲の笑みを浮かべる俺の目をのぞき込んで、アリアは微笑して。
───ひどく悲しげに揺れる瞳から、一筋の雫を零して、言った。
『秋斗………短かったけど───お別れ』
───時が、停止したように感じた。
「お別れ……?ど、どういうことだ……?」
アリアから告げられた別れの言葉に、俺は困惑するしかない。
昼間の、俺の言葉のせいなのか。
───俺のせいで、アリアは離れると言っているのだろうか。
自分を責める俺に、アリアはゆっくりと首を横に振った。
『勘違いしないで。……このお別れは、最初から分かっていたことだから』
そうして、アリアは全てを語り始めた……。
アリアは別の学校ではあるものの、秋斗と同じ中学三年生だ。
三年生になったばかりで、新しくなったクラスメート達との毎日に疲れつつも、楽しく過ごしていた。
───三日前の、夕方までは。
「別れよう」
何の前触れもなく、アリアは付き合っていた彼氏に別れを告げられた。
どうしてと縋るアリアに、彼は顔をそらし───本当に好きな人ができたと口にした。
『本当に』とは何なのだ。
彼にとってアリアは、上辺だけの好きな人だったのか。
立ち尽くしたアリアを、彼は払いのけた。
払いのけて、去っていく彼の姿が、目に焼き付いていた。
───どこをどう通って家に帰ったのか、記憶がなかった。
気が付いたら自室でひとり、うずくまっていた。
一晩、眠ることなく泣き続けて。
アリアは真っ赤に腫らした目のまま、登校の支度を始めた。
彼に会いたくはなかったけれど───授業をサボることはしたくなくて、アリアはいつもより少し早い時間に家を出て。
───横断歩道を渡ったところで、彼の姿が視界に入った。
だいぶ遠いが、アリアにはそれが彼の後ろ姿だと、すぐに分かって。
───知らない少女と歩いていることにも、気付いてしまって。
「───ぅ、く」
堪えようもなく、嗚咽が零れた。
その声が聞こえたわけでもあるまいが───彼が、こちらに振り返った。
彼に、今の自分の表情を見られたくなくて、アリアは背を向け、来たばかりの道を引き返した。
涙で霞んだ視界で、よく前も見ずに走ったせいで。
物凄い音がして───次の瞬間、アリアの体ははね飛ばされていた。
地面に頭を打ち、何が起きたか分からない。
分からないまま、意識が途切れた。
───気が付くと、アリアは白い廊下にいた。
どこまでも広がる純白の廊下に目眩を覚えつつ、ゆっくりと起き上がる。
「ここ、どこ……?」
意識を失う直前の衝撃と場所から考えて、自分はまわりを見ずに道路に飛び出し、車にはねられてしまったのだろう。
意外にも、不安や恐怖は感じなかった。ただ事実を認識した、それだけの感覚。
「私は…死んだのかな」
ぽつりと呟く。
まずは誰かを探そうと、歩き出したときだった。
『───貴女はまだ、死者ではない』
どこからともなく声が聞こえてきた。
根拠はないけれど───アリアは自然と、内に響く声を受け入れていた。本能、みたいなものだろうか。
「死んでないなら、何……?」
『貴女は今───生と死の境界線を彷徨っているのです』
生と死の境界線。
つまり、まだ死んではいないけれど、死にかけているということか。
「なら、今の私は魂だけの状態?」
『───ええ、その通り』
取り乱すこともせず、現実を見つめる。
もしかしたら、魂には感情らしい感情が与えられていないのかもしれないと、アリアは漠然と思った。
それから、不思議な声が語ったのは驚くべき事実だった。……字面ほど、驚きはしなかったけれど。
───不慮の事故等で死にかけている者には、選ぶ権利があるのだそうだ。
生きるか死ぬかの選択肢が与えられ、猶予期間が終わるまでに選ばなければならないのだ。
『……その猶予期間中は、現実で霊として存在することができるんだよ。たった一人に限り、姿を見せて会話することもできる』
───話し終え、アリアは息をついた。
俺はもう、アリアの顔を凝視し続けることしかできない。
それでもなんとか、強張った唇を必死に動かして俺は言った。
「お別れ、っていうのは……」
『───明日……もう今日だね。今日の朝で、猶予期間が終わるんだよ』
「で、でも…猶予期間は三日で……まだ、会ってから二日しか───ぁ」
『そう。…私が秋斗に会ったのは、二日目の朝なんだよね。一日目は……思い出の場所を巡ってたから』
思い出の場所。───その一言が、やけに引っかかった。
もしかして、アリアは。
「アリアは……死ぬ選択肢を、選ぶつもりなのか……?」
『………私は、死ぬのが怖い。痛いのも嫌だし、苦しみたくない。でもそれは、生きるのが怖いっていうことでもあるんだ』
生きている限り、苦痛はつきものだ。
死ぬのは怖いけれど───生き続けることも怖い。
なんとなくだけれど、俺は理解できるような気がしていた。
『そんなときにね、霊体のまま終わるっていう選択肢を出されて……そっちを選ぼうと思った』
「……思った、ってことは」
『───君のせいだよ、秋斗』
アリアは、泣きそうな顔で笑った。
『秋斗のせいで、私は生きたいって思っちゃったんだよ?』
「───」
『たったの二日だけど、もっと秋斗のこと知りたいと思った。もっと一緒にいたいと思った。……別れが辛くなること、分かってたはずなのにね』
───そんなふうに、アリアは思っていたのか。
別れの時を知っていて、ひとりで悩んでいたというのか。
『私は、生きることに決めたの。……万にひとつの可能性でも、また秋斗に会いたいから』
俺の心を熱く震わせる言葉の中で───ひとつだけ、違和感を覚えた。
生きる選択をするなら、俺とアリアは会えるはずで。
なのにどうして、彼女は今生の別れでもあるかのように、辛そうな目で俺を見ているのだ。
『───猶予期間が終わったら、私と関わったその期間の記憶が消されるんだって。もちろん、私も』
──。
─────。
今、アリアは。
彼女は、なんと言った?
消されてしまうと、言ったのか。
俺の中にある、アリアと過ごした記憶が。
アリアの中にある、俺を含む三日間の記憶が。
───なかったことにされると、そう言ったのか。
「どうにか…どうにかならないのか……⁉」
足りない知識を総動員して、覚えていられる方法を探す俺を───アリアは眩しそうに見ていた。
『───ありがとう、秋斗。覚えていたいって、そう思ってくれたことが凄く嬉しい。……でもね、ダメなんだ』
「だめなんて……!どうしてそう、決めつけ……」
感情のままに怒鳴ろうとした言葉が、霧散した。
アリアが、考えなかったはずがない。
悩まなかったはずがない。
考えて考えて、悩んで悩み抜いて、彼女はお別れだと、そう言ったのだ。
最早声も出ない俺を、雲の隙間から顔を出した太陽の光が窓ガラスを通し、やわらかく照らしだした。
時計を見た。───もう七時近い。
朝が、やってきてしまう。───別れの朝が。
「俺だって…俺だって、アリアのこと……‼」
『秋斗』
「知りたいことだって、まだたくさん……っ」
『秋斗。───お願い』
お願いという一言に、俺の喉は沈黙した。
そうして生まれた静寂の中、アリアは俺の右手に手を重ねて、
『私のために、弾いてよ』
確かにそこにいるのに、触れ合えない。そういうもどかしさを秘めた瞳で俺を見ていたアリアが、ちらりと視線をむけたもの。
───それは、ピアノだった。
『…あちこち彷徨ってたとき、君のピアノの音が聞こえたんだ。その音は全然楽しさが伝わってこなくて、ひどい音で……どんな人が弾いてるんだろうって、来てみたんだよ』
楽しさが伝わってこないだの、ひどい音だの、さんざんな言われようだが、それを口にするアリアは微笑んでいた。───嘲りではない、本心からの微笑。
『このピアノのおかげで、私は秋斗に会えた。だから、お願い。また会えるように、忘れてしまっても繋がっていられるように、ピアノを弾いてほしい。───聴かせて、君の音を』
「───」
───俺はこれまで、指が動くに任せて弾いてきた。
ひどい音と、そう評されるのも仕方ないくらいに。
けれど───今は。
胸を締め付ける、この想いをのせて弾くから。
震える指を鍵盤の上にのせ、息をはくのにあわせて最初の音を響かせる。
曲の流れにのりながらも、思い返すのはアリアと過ごした二日間のこと。
知りたいこと、話したいことが、山のようにある。
叶うならば、二人で歩んでいきたいと思う。
もう一度、会いたい。
たとえアリアのことを───その気持ちを忘れていても。
『……ああ』
アリアが、熱い吐息を零した。
幾千もの光の粒となって、存在がほどけていく。
俺の瞳から溢れた光の雫が一滴、鍵盤に弾けた。
───俺は、演奏をやめない。思いの丈を、一音一音に込め続ける。
消えていく。思い出が。
大切な、──との、記憶が消えていって。
耐え難いほどの切なさを孕んだこの想いさえも───
『───な、音』
最後に、聞こえかけた言葉。
何と言ったのか考える間もなく、消える。
───俺は、思い出が手の届かないところに遠ざかってなお、ピアノを弾き続けていた。
***
「───あの、ピアノに触ってみてもいいですか?」
───売り物のピアノを柔らかい布で丁寧に拭いていた俺は、躊躇いがちにかけられた声に驚きつつも、反射的に頷いていた。
「いいですよ、どうぞ」
弾いて良いか、と聞いてくる客は結構いる。だが、今のように触れて良いかと聞かれたのは初だった。
五年前まで、俺はピアノが好きではなかった。
練習をしていても全く関係のないことを考えていたし、何より楽しいと感じられなかった。
それが、突然変わったのだ。
ピアノを見るたび、ピアノの音を聞くたびに跳ねる鼓動───だが、きっかけが何も思い出せない。
胸に残る切なさを手繰り寄せようと、俺はピアノを弾いた。二十歳になった俺は、バイト先もここ───小さな楽器店を選んだ。
「───」
ふいに聞こえた旋律に、俺は肩をぽんとはねさせた。
見れば、先ほど声をかけてきた女子大生も俺を見ている。
「その曲……」
「何故かは分からないんですけど、耳に残っている曲なんです」
メロディー部分を少ししか弾けないんですけどね、と彼女は笑った。
同じだ、と思った。
俺にとって一番大切で、一番胸が締め付けられる曲はこの曲だ。
そう気付いたら、俺は無意識のうちに一歩踏み出していた。
「───俺は響音秋斗っていいます。……どこかで、お会いしたことはありませんか?」
彼女の顔に、見覚えはない。けれど、会ったことがあるはずだと、確信に近いものが俺を突き動かしていた。
「……ごめんなさい、思い出せません。でも…会ったことがある気がする」
女子大生は、天海 璃愛と名乗った。聞き覚えはなかったが、何かが引っかかっているような感覚は徐々に広がっていく。
「響音さんも、ピアノを弾かれるんですか?」
俺は顎を引くと、璃愛が触れているグランドピアノの隣にある、アップライトピアノの前に立った。
アップライトピアノは、箱型のピアノ、と言えば分かるだろうか。フレームや弦等が鉛直方向に配置されていて、狭いスペースでも置けるようになっているピアノだ。
迷うことなく璃愛がメロディーを弾いた曲を選択し、俺は店内に他の客がいないことを確認してから弾き始めた。
揺蕩う旋律。けして乱暴ではなく、けれど脆くはない音が胸中をかき乱し、繋いでいく。
高音が煌めく。───あの日の思い出のように。
双眸に熱いものが滲んだ。悲しみではなく、喜びに弦を震わせて。
残り四小節を、俺は優しく包み込むように弾いた。
「───」
軽く宙に浮かせた両手をゆっくり下ろして、俺は璃愛のほうを向いた。
薄れぬ興奮と、それ以外の感情を浮かべた璃愛の瞳を、のぞき込む。
口の端に、微笑を浮かべた。───やっと、探していた忘れ物が見つかった気分で。
「…おかえり。───アリア」
璃愛───アリアは瞳を揺らめかせ、頬に涙の雫を幾つも転がしながら、口を開いた。
「ただいま───秋斗」
───音には、感情が乗る。
想いをのせた音は人と人を繋ぎ、時にはこんな奇跡をも起こしてくれる。
『───聴かせて、君の音を』
再会を、彼女と共にあることを望んだ俺の音は───、
「───素敵な、音だったよ」
思わず、笑みが生まれる。
俺は初めて───ピアノを弾いてきて良かったと、本心から思えた。