さくら、散る 前編
次にふっと意識が繋がったとき、私は見知らぬ河原に立っていた。
夕日に水面が赤くそまり、遠くには橋が架かっていてその上を電車が通っている。電車のデザインに見え覚えがあったので、どうやらそこまで遠い場所に飛んだわけではないようだ。
私がきょろきょろと周囲を確認していると、近くから声がした。
「驚いた。お前、昨日の人間か?」
カァという鳴き声に重なるような話し声。そちらへ視線を向けると、河原に転がる石の上をぴょんぴょんと跳ねるようにカラスが飛んでいた。
間違いない、昨日のカラスだ。そう思うと、私は慌てて口を開いた。
「お化けさんが消えちゃったの! どうやったらまた会えるのか、方法を知らない!?」
前のめりで尋ねた私に、カラスは逃げるように後ろに下がった。
「おい、いきなりだな。そんなことを突然言われても意味が分からないぞ。順を追って話せ」
「あ、う、うん。ごめんなさい」
気が急きすぎたことを反省し、私は昨日カラスさんと別れた後のことを順番に説明した。
私が実は死んでいて、お化けさんが私の魂をこの世に繋ぎ止めてくれたこと。お化けさんが私の暴走を止めてくれたことや、力を分けてくれたこと。
そうして、お化けさんの桜が赤く染まって、花が散ってお化けさんが消えてしまったこと。
すべてを話し終えると、カラスはあきれたような声でカァと鳴いた。
「なるほどな。お前からは随分と死臭がすると思ったが、お前の方が幽霊だったんだな」
「そうだったみたい。そういうのって、気が付かなかったの?」
「普通の人間じゃあないとは思ったが、純粋な死霊にしてはお前は生気が強かったんだ。だから、死者に憑りつかれた人間かと思った。けれども実際は逆で、生気を分け与えられた死者だったわけだ」
「生気を分け与えられた?」
「お前をこの世界に繋ぎ止めるために、桜は生気と力をお前に与えていたんだろうよ。心当たりはないか?」
カラスに言われて私は自分の額を撫でた。
おまじないと言って、お化けさんが何度もキスをしてくれた場所だ。
「生気を与えるだけじゃなく、お前から穢れも吸い取っていたんだろう。随分と無茶をするもんだ。幽霊相手にそんなことをやっていたら、消えてしまうのも無理はない」
「穢れってやっぱり悪いものなの? お化けさんは力にもなるって言っていたし、実際、私の血を吸って人の形を取れるようになったって」
「恨みや怨念といったドロドロしたもんだぞ。身体に良いとおもうか? 短期的に見れば力になるが、その分身体や精神を蝕む毒だよ」
「毒なの?」
「毒だよ。そもそも死霊っていうのは、殆どが穢れの塊みたいなもんだ。恨みつらみを抱いて消えきれずに残っちまう魂だからな」
カラスの声には嫌悪感がこもっていた。前の時も感じたけれど、どうやら彼は幽霊がとても嫌いらしい。
「あんたは幽霊だって俺が気づかないくらい安定している。お化けさんとやらが、アンタから穢れを吸い取って、自分の力と生気を分け与えたからだろうよ」
カラスの言葉に私は胸が締め付けられる。
お化けさんはずっと私に優しくしてくれていた。最後まで、大丈夫だって言ってくれた。自分の命を使ってまで。
「どうしてそこまでしてくれたんだろう。私、お化けさんに何もしていないのに」
「そいつはアンタに、何も言っていなかったのか?」
「好きだとは言ってくれたけど、でもだからって、こんなことまで」
自分を犠牲にしてまで、私を留めようとしてくれるなんて、どうして。
「好きだって言ってたんだろう? だったら、それが理由だろう」
「分かんないよ。好きだっていっても、出会ったばかりだし、私、お化けさんに何もしてない」
「何かしてもらったから好きになるんじゃない。好きだから何かしてあげたいって思うんだ。そいつは、アンタのために命を使いたいって思ったんだろうよ」
「命を使う?」
カラスは頷くように首を縦に振った。
「妖怪ってのは人間みたいに寿命がない。何年だって生きられる代わりに、死ぬときだって自分で決めなくちゃならない。まぁ中には、事故か何かで不意に消えちまう妖怪もいるがな。その桜は自分の終わらせ方を自分で決めたんだろうよ。同情する必要も、悲しむ必要もないさ」
「そんなの勝手だよ。悲しまないなんてできない」
お化けさんは私にとてもやさしくしてくれた。
そんな人が消えてしまって、私が残るなんて……そんなのは嫌だ。
「お願い。どうにかならないの? お化けさんにもう一度会うことはできない?」
「死んだものを生き返らせることは出来ない。その桜の木がどういう状況か見てみないことにはなんとも言えないが、難しいな。弱っているだけで、まだ息があるならどうにかすることはできるかもしれないが――」
「だったら、お化けさんの桜を見て!」
私がそう言うと、カラスは嫌そうに首を振った。
「なんだって俺がそんなことを……それで、俺に何のメリットがあるっていうんだ」
「メリットはないけど、でも、お願いします! 代わりに私にできることがあれば、協力するから」
私はカラスに向かって深く頭を下げた。しばしの沈黙のあと、カラスは諦めたようにふっと息を吐いた。
「場所は昨日の学校だったな?」
「見てくれるの!?」
「見るだけだぞ。力を貸したり、分けたりはしない。良いな?」
私が頷くのを見て、カラスは私の腕へと乗った。鋭い足に腕を捕まれて、私はびくりと身体を震わせる。
「うわっ!」
「お前、移動はできるんだろ? 学校まで連れていけ」
「い、移動?」
「ここまで来た時と同じ方法だ。力の使い方は分かるか?」
「う、うん。多分、大丈夫」
私は頷いて、ここまで飛んだ時の感覚を思い出した。3度目になるので、以前よりもスムーズに力の流れを感じ取れる。身体がカッと熱くなり、どこかに引っ張られる感覚。その感覚を掴みながら、私は学校の裏庭を思い浮かべた。
ぐらりと世界が歪んで、一瞬後、私は学校の裏庭に立っていた。少し不安だったけれど、腕にはちゃんとカラスがしがみついたままである。
カラスは羽ばたいて私の腕から降りると、地面に落ちた花びらを見て低い声を出した。
「こりゃあ酷いな。神聖な御神木がここまで汚染されているとは」
「どうにかなる?」
「ちょっと待ってろ」
カラスは花びらを踏まないように羽ばたき、散ってしまった桜の木の枝にとまった。
何度か木を嘴でつつくような動作をして、木を調べた後にようやく声を発した。
「凄いな。この状況でも、まだ辛うじて死んではいない」
「本当に!?」
「だが、穢れが酷い。まずはこれをどうにかしないと、どうにもならんだろうな」
カラスの言葉に私は地面の花びらに目を落した。真っ赤に染まった桜の花は、お化けさんが私から穢れを吸ってくれた証だ。
「どうすれば良いの?」
「とりあえず、この花びらを集めて掃除しろ」
「掃除? そんなことでいいの?」
「しないよりはマシだ。汚れた場所には陰の気が溜まりやすい。この場を清めて清浄な状態に戻すんだ。俺はソレに触れたくないから自分でやれよ。あんたは元々死霊だ。多少穢れに触れたって平気なはずだからな」
カラスは花びらをみて嫌そうな声で言った。
「分かった。掃除して、それでどうすれば良い?」
「花びらを集めて川に流せ。水には穢れを浄化する力があるからな。もっとも、それくらいじゃあ祓いきれないだろうけど」
カラスは周囲を見回して羽根をばたつかせた。
「この場所の穢れは酷いもんだ。これが全部あんたの穢れなんだとしたら、相当だな。よほどひどい殺されかたをしたのか、それ以前に魂が傷つけられていたのか」
独り言のようなカラスのつぶやきに私は眉根をよせた。
ひどい殺され方をしたし、その前にも人間関係で私は傷ついていた。
その時に溜まった恨みのようなものを、お化けさんは吸い取ってくれたのだろうか。
「この場所が穢れているんだとしたら、それは私のせいだよ」
「さもありなん。その若さで死んだんだ。恨みも嘆きもひとしおだろうよ」
カラスの声には、少しばかり同情するような色が混ざっていた。
「私、どうすればいい? どうすればお化けさんを助けられるの?」
「――諦めるんだな。気休め程度の祓いはできるが、それだけじゃあこの木は蘇らない。そもそも、こいつにはもう生気がほとんど残ってない」
前にもカラスは生気について話していた。生気が無くなると存在が薄くなって、完全に生気を奪い尽くされると死んでしまうって。
「どうすれば生気を増やせるの?」
「健全な状態なら時間経過で勝手に増える。だけど、あんたみたいな死霊や、この桜みたいに穢れに蝕まれている状態じゃあ無理だ。どこか他からもらって来なければ生気を増やすことはできないだろう」
「他からもらってくる?」
「例えば、この学校の生きている生徒とか」
カラスの言葉に私は息を飲んだ。
「それって、大丈夫なの? 生気が薄くなるのって、よくないんでしょう?」
「よくないな。生気はエネルギーみたいなもんだ。薄くなると不幸に陥りやすくなるし、奪い尽くされると死んでしまう」
「そうと分かって、そんなこと出来ないよ」
お化けさんは助けたいけど、だからといって、その為に他の人が傷ついていいとは思えない。
「その言葉に安心したよ。そもそも、無作為に奪ってきた生気じゃあだめだ。そういうのは死霊の分野だからな。こいつは御神木だろう。生気を分けるにしても清らかなものじゃないといけない」
「清らかな生気?」
「そうだ。お前はこの桜からもらっただろう。相手が何の恨みも抱かずに、相手の為を思って捧げる力が必要なんだよ」
カラスの言葉に私は眉根を寄せた。
「そんなの、無理じゃあないのかな」
桜の木のために、生気をささげてくれるような人が居るとは思えない。
「だから諦めろって言っただろう」
「だけど、諦めるなんてできないよ。お化けさんがこうなったのは、私の所為なんだし」
「そりゃあ違う、この木が望んでそうしたんだ。この木が力をささげたおかげで、お前の魂は死霊とは思えないくらい安定している。今のお前は死霊というより妖怪に近い。その状態のまま何年だって存在しつづけられるだろうよ。そうなることをこの木が望んだからだ」
私はお化けさんに死にたくないって何度も言った。生きて友達が欲しいって。
だからお化けさんは私の願いを叶えようとしてくれたのだろうか。私が消えずに済むように。
「肉体のない生だ。普通の人間と接触することは簡単にはできないし、今までと勝手が違って戸惑うことも多いだろう。だか少なくとも意識をもったままここにとどまり続けることはできる。俺達みたいな妖怪が相手なら会話もできるし接触もできる。お前の知り合いの行く末を見届けることも可能だ」
「行く末を見届ける……」
喋ることはできなくても、両親がこれからどうしていくのか見守ることはできるのか。
そりゃあ生きていた時の方が100倍自由だけれど、消えてしまうことに比べたら、こんな形でも存在できるのはありがたい。
すべて、お化けさんのおかげなのだ。
ただ死んで消えていくだけだった私を、お化けさんが救ってくれた。
ずっと欲しかった友達になってくれて、私を好きだと言ってくれた。
けれども、代わりにお化けさんが消えてしまった。
「お化けさんにもらった力なら、お化けさんに返すことはできないの?」
「できなくはない。だが、それをしたらお前は消えるぞ」
「消える……の?」
私の言葉が詰まった。
「そりゃあそうだ。お前がこうして死後もとどまっていられるのは、この桜の力をもらったからだ。それを失えば消える。当然の摂理だな」
それは確かに当然なのかもしれない。
だけど、やっぱり消えるというのは怖かった。
消えてしまったその先に何があるのか、お化けさんは知らないと言っていた。
消えてしまえば、何も残らないのかもしれないのだ。
「カラスは消えてしまったあと、どうなるか知ってる?」
「知るわけがない。消えてしまったヤツは戻って来ないんだから」
「転生があるとか」
「どうだろうな。そう信じているやつもいるが、実際のところは分からない」
カラスの言葉に私は目を伏せた。
私のこの生は、お化けさんにもらったものだ。お化けさんの命を喰らって得た生なのだ。
そんなの間違っているって思う。お化けさんに返さなければとも。
だけど、どうしても決心がつかない。消えるのが怖くて手が震える。
「消えてしまうのは、怖いよ」
「まぁそうだろうな。俺だってまだ消えたいとは思わない」
「まだ?」
カラスの口ぶりでは、いつかは消えていいと思っているように聞こえる。
「最後のときは絶対にくる。それは人間でも妖怪でも同じだ。妖怪に寿命はないが、だからって滅びないわけじゃあない」
「カラスは消えるのが怖くないの?」
「怖いとは思わないが、不本意に消えるのは嫌だな。そういう意味では、この桜の命の使い方は羨ましい」
「お化けさんが羨ましい? どうして? 消えてしまったのに」
カラスは妖怪だからか、私と見ている世界が違うように感じる。
どことなく、お化けさんに似ているような気もした。
「人間と違って妖怪は繁殖ができないんだ。だから、命を次に繋ぐことができない。けれども桜はお前に命を託したんだ。お前が生き続ける限り桜はお前の中に残る。力にも、記憶にも」
「よくわからないよ。私の中にお化けさんの力があっても、それでお化けさんがいなくなったら意味がないでしょう?」
「永遠に存在し続けることはできない。絶対に消える日がくるんだ。だったら、せめて何かを残して消えたいと思うもんだよ。人だってそうじゃあないのか? 子孫を残すか、手記を残す者もいるな。あるいは誰かの記憶の中に自分を残して死ぬ奴も」
カラスさんの言葉に私は黙った。
私はまだ14歳だった。死について考えるほど生きることができなかったのだ。
だけど、死んでしまって今だから、カラスさんの気持ちも少しだけ分かるような気がする。
私は生きている間になにも残せなかった。空気のように生きてきた私だ。両親以外の誰かの記憶に強く残ることもないだろう。
それはとても悲しいことのように思う。とても勿体ない命の使い方だったと思うのだ。
「もらった命をどう使うかは自由だ。いらないと言って桜に返すこともできるだろうが、おそらく桜はそれを喜ばないと思うぞ」
「…………」
「力を返すつもりなら3日以内に決めるんだな。この桜に残った僅かな生気はそれくらいしか持たないだろう。桜の命が完全に消えてしまえばもう力も返せない」
「分かったよ。色々とありがとう。どうするか少し考えてみる」
私がそう答えると、カラスは枝の上から心配そうに私を見下ろした。
「おまえは随分と危なっかしいヤツだな」
「そうなのかな。色々と抜けているって、生きていたときからよく言われたけど」
「そうだろうな。自分が死んだことも忘れるような抜け作だ。俺は幽霊なんて大嫌いだが、お前は抜け過ぎていて見ていられない」
まさかカラスにまで馬鹿にされる日がくるとは思わなくて、乱暴な物言いに目を瞬く。
「俺は黒吉だ。何か困ったことがあれば名前を呼べ。暇をしていたら、面倒をみてやらないこともない」
「黒吉? それが、カラスの名前なの?」
「昔、俺にそう名付けたヤツがいたんだよ。俺達みたいな存在に名は便利だぞ。離れていても呼ばれたのが分かる」
「お化けさんは名前が無いって言っていたけど」
「そりゃあ仕方がない。あれは桜だからな。植物に名前をつけるやつは少ないだろう」
カラスの言葉に私は頷いた。お化けさんも以前そんなことを言っていた。
「前にも言ったけど、私は咲良だよ。私も呼ばれたら分かるのかな?」
「どうだろうな。お前は鈍そうだから、分からないかも」
カラスの言葉に私は笑った。こんな風にカラスと普通に話して笑えるなんて、自分も随分と人間離れしたものだ。
「じゃあな、咲良。これからどうするのか。もらった命をどう使うのか、よく考えるんだ」
黒吉はそういうと空に羽ばたいて消えていった。その姿を見送って、私は散ってしまったお化けさんの木に視線を移す。
――これからどうするのか、どうしたいのか、しっかり考えないと。
私はそう呟いて、とにかく少しでもこの場の穢れをどうにかしようと、お化けさんの花弁を集めることにした。
お化けさんの花弁を一つ一つ拾い集める。本当は箒や塵取りを使えば早いんだろうけど、今の私が掃除用具を持ち出すと騒ぎになると思ったから、手をつかって花びらを拾い集めた。
集めた花弁は制服のブレザーを使ってくるりと丸める。このブレザーも実際は存在しないものの筈だけど、花弁をこうして持ち運べるのは不思議だった。もしかしたら、ブレザーを使わなくても、そうできると信じて念じれば花弁が動くのかもしれない。もっとも、私にはできそうになかったので大人しくブレザーを使って花弁を運んだ。
花びらを水に流せと言っていた黒吉の言葉を思い出し、一番近くにある川へと向かう。
片付け終わったころにはすっかりと日が暮れていた。私は真っ暗な夜の川に花びらを流す。
血のように真っ赤な花びらが水の流れに遊ばれてくるくると回る。下流に向かって流れていくうちに、インクの染みが落ちるように花弁の色が変わっていた。
赤から白へ色が溶け落ちていく。浄化されていく。
黒い川の上を白い花弁が躍るようにくるくると回る。
それはなんだかとても綺麗で、花弁がすっかり見えなくなるまで私はその光景に魅入っていた。
死んだことを自覚するまで、私には夜の記憶がなかった。
下校しようと校門を出たところで記憶がとぎれて、翌日の教室から私の記憶が再開している。そのことに違和感を覚えることもなかったのだから、こうしてすっかりお化けさんに力を与えられるまで、私の存在はとても不安定だったんだろう。
お化けさんのことを考えると、胸が締め付けられるように苦しくなる。
何も言わずに、ただ私を生かそうとしてくれたお化けさん。
お化けさんのことが愛おしくて、もう二度と会えないのだと思うと悲しかった。
お化けさんがくれたこの時間で、何ができるだろうか。
私は何がしたい? この命をどう使いたい?
友達が欲しいって、ずっとそう思ってきた。だけど――。
『僕は君の友達だよ。だから、いつだって君を歓迎する』
『大丈夫だよ、咲良。――僕が君を守るから』
『僕は咲良が好きだ』
お化けさんがくれた言葉が蘇る。
会いたい。
会いたいよ。お化けさんに、会いたい。
今の私の一番の願いは、お化けさんに会うことだ。
お化けさんに会って話がしたい。だけどきっとそれは叶わない。
だって、お化けさんに力を返したら私は消えてしまうのだ。そうしたら、お化けさんと話もできない。
私はどうしたら良いんだろう。
答えが出せないまま私は学校へと歩き出す。考えをまとめるために、ゆっくりと夜道を歩いて向かう。
すれ違う人は誰も私に注目しない。みんな私が見えていないのだ。
自分だけが切り離された世界の中を歩いているような、不思議な感覚だった。
お化けさんはずっとこんな感覚だったんだろうか。
見ている世界が違う、生きている時間が違う。
お母さんやお父さんが老いていっても、私はこの姿のまま世界に取り残されるのだろう。
それはとても寂しいような気がした。もしかしたら、消えてしまうよりもずっと寂しいのかもしれない。
河原から学校までゆっくりと歩いて帰り、校門が見えてきた頃には月が空高くに昇っていた。
もしかしたら、今頃私のお通夜が行われているのだろうか。
私はこうしてここにいるけれど、もう人として生きていくことはできないのだ。
学校の門はすでに閉められていた。どうしようかと考えて、私はそっと目をつぶる。そのまま前に向かって歩くと、何の障害もなく足は進んだ。校門をすり抜けたのだ。
あっけなく校内に入り込んで、人間離れしたものだと自嘲気味に笑ってから、私はまっすぐに裏庭へと向かった。
月の光に照らされて、お化けさんの黒い桜の木が立っている。青い葉を茂らす他の桜と違って寒々しい裸の木だ。私は桜の木に近づいてそっと幹に触れた。
「お化けさん、そこに居るの?」
額を幹にくっつけながら尋ねるけれど、答えは返ってこない。
お化けさんはこの学校ができたころにはもう意識があったと言っていた。
私よりもずっと長い時間、誰にも気づかれずに一人でここにいたのだろうか。
寂しくなかったのかな。辛くなかったのかな。
私はきっと、ずっと一人でいるなんて耐えられない。
「お化けさんの馬鹿。ひとりでいなくならないでよ」
返事のない木を抱きしめながら、じんわりと涙が浮かんでくる。
この裏庭は滅多に人が来ない寂しい場所だ。
だけどここには桜の木があった。とても見事な桜の木。
この桜の木が二度と咲かないのは、胸が締め付けられるように寂しいことだった。