お化けさんの嘘 後編
次に意識が浮上したとき、私は教室の自分の席に座っていた。
どうやら私は、自分の机の上に突っ伏した状態で眠っていたようだ。慌てて私は机から身体を起こして、周囲の様子を確認する。
窓の外はすっかり明るくて、穏やかな陽光が教室の中に入り込んでいる。教室の中にはすでにたくさんの生徒がいて、そこかしこでお喋りを楽しんでいるようだった。
――どういうこと?
どうして自分が教室の中に居るのか、前後の記憶がすっぽりと抜け落ちていて思い出せない。
記憶の断片をさぐるように教室の中を見回して、前方に設置された壁時計が目に入る。時刻は朝の8時30分。もう予冷が鳴った後の時間だ。
私は自分の身体を見降ろした。
いつもと同じように制服を着ている。学校の制服。けれども、制服に着替えた記憶がない。
いや――そもそも、私は家に帰ったんだっけ?
昨日の出来事を思い出そうとすると、記憶に霞がかかったようにぼんやりとする。
昨日はたしかお化けさんと一緒に校内を散歩して、それで、カラスに会ったんだ。
その後に身体が動かなくなって、地震が起きて、お化けさんが突然現れた。
それからどうなったんだっけ。私はちゃんと家に帰ったの?
昨日の出来事について深く考えようとすると、頭の中に靄がかかる。
――うん、私はちゃんと家に帰った。
それで夕飯を食べて、朝起きて、学校に登校してきたはず。
変だな。どうして家に帰っていないなんて思ったんだろう。
私が首をかしげていると、教室のドアが開いて担任の先生が教室へと入ってきた。
黒いスーツをまとった先生のネクタイの色は黒かった。
先生がどこか鎮痛な面持ちで教壇の横まで歩くと、慌てたように生徒達が自分の席へと戻る。
生徒全員が着席をして、教室が静かになったところで先生が口を開く。
「今日は皆に言わなければならないことがある。新学期前日に行方不明になっていた、うちのクラスの藤代咲良の遺体が、昨日、県境の山中にて発見された」
先生の言葉に生徒達が騒めいた。「きゃぁ」と小さく悲鳴をあげる生徒や、「朝刊で読んだよ、怖いよね」といって囁き合う生徒。「藤代さんって誰?」「ほら、いじめられ気味で3年になってから学校に来ていなかったあの――」「行方不明ってなに?登校拒否じゃなかったの?」そんな言葉が口々に飛び交う。
それらの言葉はすべて耳に入ってきたが、私の頭の中を通り過ぎた。
誰の遺体が見つかったって?
藤代咲良は私の名前だ。
先生は、いったい何を言ってるのか。
私は今、ここに、このクラスの自分の席に居るのに。
「犯人は現在も逃走中だそうだ。犯行現場はまだ特定されていないが、この学校の近所だという話もある。通学の際はできるだけ一人にならないよう注意して、犯人が捕まるまでは部活動も短縮して早めに帰るよう通達があった。放課後不用意に出歩いたり、人気の少ない場所に行かないよう注意しなさい」
先生はそう生徒に注意を促すけれど、私はひとり教室の隅で混乱していた。
だって、先生が言っている言葉の意味が分からない。
通り魔に私が殺された?
だったら、ここにいる私はいったいなんなの?
「私はここにいます!」
私は椅子から立ち上がって声を上げた。今まで上げたことのないくらい大きな声だ。
けれども、私に視線を向ける人は誰もいない。
私の声が聞こえた様子もない。
――嘘だよね?
心臓がドクドクと早くなって、私は自分の胸に手を当てた。
制服のブラウスの感触の下で、確かに脈打っている鼓動を感じる。
動いている。心臓が動いている。私は生きているはずだ。
でも、だったらどうして私の姿は誰にも見えないの?
私の声は聞こえないの?
「先生、冗談はやめてください! 私は生きてます。 ここにいるんです!」
私は叫んだ。衝動のまま教壇の前まで走って行って、バンッと教卓をたたいて先生に詰める。
すると、シンッとした沈黙が教室を支配した。
「――今、変な音がしなかった?」
「やだ、怖い。本当に幽霊がいるんじゃないの?」
「藤代さんが祟ってるとか」
「嫌なこと言わないでよ。不謹慎だよ?」
ざわめきが走る。クラスメイト達は私のことを噂しながらも、誰一人としてここにいる私を見ようとはしなかった。
現状が、私には信じられなかった。
彼らの言葉が本当なら、私はもう死んでいることになる。
「嘘だ。嘘だよ、こんなの。冗談だっていってよ! いつもの無視の延長、そうなんだよね?」
無視をされることなんて日常茶飯事だった。誰もが私をいない人間として扱っていた。
だけど――それでも、私は確かにここにいたのだ。
いまだって、ここにいる。この教室の中に。
「無視しないで! お願いだから、私に気づいてよ!」
私が叫んだその瞬間、フッと教室の電気が消えた。それと同時に、パンッと何かが破裂するような音が鳴る。
きゃあああと、誰かが悲鳴を上げた。
「やだ、なにこれ!?」
「ラップ音ってやつ!?」
パンパンと、風船が弾けたような音が連続して鳴り響く。
私の感情の高ぶりにあわせて、その音は大きくなっていくようだった。
パンという不思議な音に交じって、ガタガタと部屋が小刻みに揺れだした。悲鳴がますます大きくなる。
「机の下に隠れろ!」
誰かが叫んで、数人の生徒がつられるように机の下へと避難した。それとほぼ同じくして、パリンと音を立てて蛍光灯が砕け散る。破片がパラパラと教室の中に降り注いで、悲鳴が響き渡った。
昨日の校門前でのできごとと同じように、教室の床が激しく揺れている。けれどもそんな激しい揺れの中で、私は体勢を崩すこともなく平然と立ちすくんでいた。
――なんなの、これ。
パリンともう一つ、続けて蛍光灯が砕け散った。
ここ数日、連続して起きていた不思議な現象。
石川さんが突き落とされて、体育館の蛍光灯が砕け散って、校門前で地震が起きた。
「やだっ、なんなのよコレ!」
「藤代さんの仕業なの!?」
私を責めるような誰かの声に、私は思わず一歩後ろに足をひいた。
こんなにも地面が揺れているのに、私の足場だけは揺れていない。
もしかして、これ、私がやっているの?
悲鳴が大きくなる。3本目の蛍光灯が割れた。教室のそこかしこでガラス片が光っている。
机の下に避難しているおかけで怪我をした人はいないようだけど、それも時間の問題のように思えた。
「うそ、嫌だ、止まってよ……」
怖くなって、私はもう一歩後ろに下がる。教卓が背中にぶつかった。
けれども揺れは止まらない。私の意思に反して、悲鳴をあげるかのようにパンッと軋むような音が鳴り響く。
怖い。怖い、怖い、怖い!
こんなの望んでない。誰かが怪我をするのなんて止めて欲しい。けれど。
「なんで止まんないの!?」
揺れは止まらない。止まらないどころか、私が動揺すればするほど激しくなっていくようだった。
バンッと、今度は窓ガラスを叩くような音が聞こえた。木製の枠が軋んで、ガタガタと音を立てて窓ガラスが震えている。
このままだと、蛍光灯に続いて窓ガラスまでが割れてしまうのではないか。
そんな不安を感じた私は、教室から逃げ出すように廊下へとドアを潜った。
私が逃げ出した背後から、ガラスの割れるような酷い音と、きゃあああという大きな悲鳴があがる。
その声から逃げ出すように私はがむしゃらに廊下を走った。
けれども私が走るその先々で、フッと蛍光灯の電気が消えていく。
逃げる私を追いかけるように、パンッと何かが弾けるような音が連続して鳴り響く。
「やだ、怖い、こんなの嫌だよ! 誰か助けてっ!」
私が悲鳴を上げたその瞬間、ふわっと温かいものが私を包んだ。
「――大丈夫だよ」
「お化けさん?」
耳元で聞こえたのはお化けさんの声だ。だけど、お化けさんの姿は見えない。
「大丈夫だよ、咲良。もう、大丈夫だから」
ふわっと、お化けさんが笑ったような気配がした。それと同時に、嫌な感情がすっと身体から抜けていく。
気が付けば私は科学準備室の前まで走っていたようだ。消えていた廊下の電気がフッと再び灯る。
パンッという不思議な破裂音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「お化けさんがとめてくれたの?」
私は問いかけながらお化けさんの姿を探した。
けれども廊下には誰もいない。私以外、誰の姿も見えない。
「お化けさん、どこにいるの?」
不安になって私は声を荒げた。
すると、そっと何かが私の肩に触れた気配がした。
「大丈夫。僕はここにいるよ」
すぐ近くから、お化けさんの優しい声がする。誰かが私の肩に触れている気配も。
けれども、お化けさんの姿を確認することは出来なかった。
「お化けさん、そこにいるの?」
「うん。だけど、ちょっと力を使いすぎて人の形をとることができないんだ」
困ったようなお化けさんの声。
「もしかして、今の地震とか音とかを止めてくれたからなの?」
私の言葉にお化けさんは返事を返さない。けれども、私にはもう確信があった。
「石川さんを怪我をさせたのも、体育館の蛍光灯を割ったのも、本当はお化けさんじゃあなくて私なんだよね?」
「――違うよ。咲良じゃない。僕がやったことだ。咲良は何も悪くないんだよ」
お化けさんはそう言うけれど、だけど、きっとそれは嘘だ。
だって、昨日もさっきも、お化けさんは止めようとしてくれた。
おかしいと思っていたのだ。お化けさんは優しい人だ。進んで誰かを傷つけるようには見えない。
「本当のことを教えて欲しいの。私はもう死んでいて、幽霊になっちゃったの? それで、みんなを傷つけているの?」
先生は私の遺体が見つかったのだと言っていた。始業式の前日に私が行方不明になっていたとも。
改めてここ数日の記憶をたどってみたのだけれど、私の記憶は継ぎ接ぎのように不安定だった。
3年生になって以降、学校で過ごした以外の記憶がないのだ。
家に帰ろうと学校を出ようとしたところで全ての記憶が途切れている。そうしてまた、教室から翌日の記憶が始まるのだ。
学校の外での記憶がいっさいない。そんなの、とても不自然なはずなのに、私はそのことにまったく違和感を抱かなかった。
家に帰った覚えも、家から学校に通学した覚えもないのに、当然のように家に帰ったもの、家から通学してきたものだと思い込んで毎日を過ごしていた。
「そうか。咲良は気づいちゃったんだね。自分がもう死んでるってことに」
「っ……!」
私の死を肯定するお化けさんの言葉に息を飲む。
本当なの? 本当に私は生きていないの?
本当のことを教えて欲しいって、そう願ったのに、それでも私はまだそのことを飲み込めないでいる。
「でも、私、ちゃんと心臓が動いてるんだよ。自分で触ると体温だってある」
私の身体は、生きているときと何ひとつ変わらない。
走ると息が切れるし、緊張すると汗が出る。胸に手をあてると心臓だって動いているのだ。
「うん。それは、そういうものなんだよ。咲良が自分の身体はこうだって思いこんでいるから」
「私、本当に死んじゃったの? お化けさんと出会った最初から、死んでしまっていたの?」
石川さんに声をかけたときだって、本当に声が届いていなかったのだろうか。
私の姿が本当に見えていなかったから、みんな私を無視したの?
「嘘だよね? 死んでなんて無いんだよね? 私が見えなくなってしまったのだって、お化けさんが何かをしたからなんでしょう?」
認めたくない。納得なんてできない。
だって、私はこうしてここに存在している。見えなくなってここにいる。
こうしてここに存在して、お化けさんと話して、嬉しいとか悲しいとか、そういう感情だってあるんだ。
私はまだ生きている。そうでしょう?
「ごめんね。僕は君にたくさん嘘をついていた。死んだときの記憶を失って、生きていると思い込んでいる咲良に、真実を伝えることができなかったんだ」
「……本当、なの? 本当に私は死んでしまっているの? でも、だって、こんなにも身体がリアルなのに」
私は自分の胸に手を当てた。そこは確かにドクドクと脈打って、生きているのだとそう主張している。
「僕だって触れば暖かかったでしょう? 咲良がそうだって思いこんでるから、心臓だって動くし体温だってある、汗もかくんだよ。だけど、本当に存在するわけじゃないから、その気になれば壁だってすり抜けられるよ」
「……うそ」
私は恐る恐る廊下の壁に触れてみた。壁は指先に硬くて冷たい感触を返すばかりで、指がすり抜ける様子はない。
「できないよ」
「咲良ができないって思ってるからできないんだよ。目をつぶって、真っすぐに腕を突き出してごらん」
お化けさんに言われた通り、私は目をつぶって手を真っすぐに伸ばしてみる。
壁に手がぶつかるはずの場所は、何の反応も返してこなかった。
「そのまま目を開いて」
お化けさんに言われるままに私は目を開く。すると、廊下の壁の中に私の肘から先が入り込んでいた。
「ひっ!」
怖くなって腕を引き抜くと、何の抵抗もなくすっと腕が壁から抜けた。
信じられない。本当に、壁をすり抜けてしまった。
こんなの、普通の人間にできるわけがない。
「――私、本当に幽霊なんだ」
目の前が真っ暗になるような感覚だった。
それが本当なんだって分かっても、未だに信じられない気持ちだ。
いや、信じられないというよりも、信じたくないのだ。
「なんで? どうして私、こんな風になっちゃったの? まったく何も覚えてないのに!」
山中で私の遺体が見つかったのだと先生が言っていた。
だけど私はその時のことを何も覚えていない。
どうして死んでしまったのか、思い出せないのだ。
「君が死んでしまったのは、始業式の前日。君は授業が始まる前の日の夕方に、学校に来たんだよ」
「始業式の前日」
お化けさんに言われて、私は記憶をたどった。
私のここ数日の記憶はどうにもあやふやで、授業を受けている時間、お化けさんと喋っている時間以外のことが抜け落ちている。
それでも靄を掴むように記憶の断片を辿っていくと、始業式前日の記憶が微かに蘇ってきた。