夜空を仰いで
―ホテル屋上 夜―
「――そこまでは、覚えている。ただ出口を目指して、凍らせたことまではね」
N.N.は、大きく息を吐く。
「気が付いたら、研究所の外にいた。そして、目の前には膝をついているボロボロのアレスがいたんだ」
(記憶が抜け落ちている……?)
これまでの話、会話まで詳細に覚えていたというのに突然の記憶の欠如。誤魔化しや嘘によるものではないことは明らかだ。何故なら、僕もそんな経験を何度もしたことがあるからだ。
龍の力を組み合わせることによって、顕現する獣の存在。それぞれ形は違えど、彼と僕の持っているものは同じ。特異な存在へと成り果てた獣は、時に宿主を支配する。その際に、僕らは自我を奪われるのだ。
「それで、あいつは言ったよ。『しばらく、見ない間に強くなったね。君が、女じゃなくて本当に良かった。女だったら、もう二度と自分の手に渡って来なかっただろうから。あ~あ、男は見る目がないんだよなぁ。マーラは……』って」
「じゃあ、その後どうしたんですか?」
龍の記憶をもってしても、把握しきれていない彼の人生。それを聞けば聞くほど、自分と彼を重ねてしまった。信頼していた人に裏切られて利用され、挙句に自分という存在を滅茶苦茶に壊された。その失意と絶望は、痛いほどに分かる。
「情けない話だよ。その隙を突いて、逃げた。復讐を誓った相手なのに、明らかにチャンスだったのに……いざ、その時となると殺せなかった。怖かった。憎い相手なのに、楽しい思い出ばかりが蘇って……必死に逃げたんだ。こんなことになるくらいなら、自我を取り戻さなければ良かったって、そのまま狂ってさえいれば楽だったって、いっそ何も知らないままでいられたらって思いながら。でも、どこまで逃げたらいいか分からなくなって……苦しくて寂しくて、崖から飛び降りたんだ」
その顔に浮かぶは、自身への蔑みと苛立ち。
「まだ、分かっていなかったからね。自分が不老不死になってしまっていたことが。鳥族のくせに、翼すら出せない有り様なら、このまま叩きつけられて死ねると思ったんだ。逃げられて、自由になれる場所は……死が示してくれると思ってしまったんだ。だけど、フフ……驚いたよ。そんなタイミングで、自分は空を飛べるようになってしまった。白い翼が、空いっぱいに広がったんだ」
両手を横いっぱいに広げ、憂いに満ちた表情で天を仰いだ。
「ふわりと浮いて、まるで風にでもなった気分だった。けれど、ちっとも心地良くなかった。重苦しい空気に、殺伐とした景色。それに終わりもない……絶望ばかりが漂う世界が広がっていたから。もう嗤うしかなかったよ」
「……ちょうど、今のお前みたいにか?」
珍しく、ゴンザレスが真面目な表情でそう問いかけた。
「え? あぁ……ハハッ」
N.N.はその目に涙を滲ませ、歪な笑みで肩を揺らした。




