血の香り
―N.N. 回想―
渡されたハンマーを握り締めたまま、自分は走った。怖くて、怖くて仕方がなかった。全部狂っていると思った。逃げるしか道がなかった。
けれど――、
「どうして逃げるのさ? 折角のチャンスだったのに。仕方ないから、もう殺したよ」
逃げ込んだ先で、返り血で真っ赤に染まったアレスが待ち構えていた。
「っ、なんで……!?」
「も~君の行きそうな場所くらい分かるよ。飛べないし、魔法も使えないし……そんな華奢な足じゃ、遠くにも行けないでしょ」
両手を広げ、やれやれと首を横に振るアレス。
「はぁ、はぁ……」
もう走れなかった。狭い籠の中でしか体を動かしたことがなかったから、広い世界に飛び出ても対応しきれなかった。圧倒的に体力不足だった。心臓が口から出てきそうなくらいの気持ち悪さだった。
「残念だよ、色々と。君とは、絶対に分かり合えると思ってたのにねぇ。アハハ」
「自分は、アレスのこと……よく分からない。変だよ」
人を殺すのは怖いことだ、悲しいことだ。絵本でそんなシーンを見た時、心が酷く痛んだ。それなのに、アレスは平然と笑っていた。あの牢の中で、いつも見せてくれていた笑顔と何も変わらない。それが、本当におぞましかった。
「君とは、誰よりも何よりも……濃密な時間を過ごしたはずなんだけど」
「確かに、色んなことを教えて貰った。アレスがいなかったら、きっと自分は歩くことも喋ることも……だけどっ!」
もう同じ道は辿れないと思った。嫌悪感を、本能的に感じたのだ。
「どんな理由があっても、人を傷付けたら駄目なんだ! もうアレスとは一緒にいたくない!」
「綺麗事だなぁ。皆、必ず誰か傷付けてる。意図せずとも、生きていれば絶対に。勿論、君だって……」
血の香りを漂わせながら、彼は自分に近付いた。そして、自分の顎を掴み、冷たい目線を浴びせ言った。
「まぁ、理解出来ないのなら力尽くでやらせて貰うよ。一体、今までどれくらいの時間を君なんかの為に割いてあげたと思っているのか……迷惑な話だよね。今、自分は傷付いたよ」
「ぁ……ぁ……」
その底知れぬ恐ろしさに、まともに声が出てこない。足も、まるで凍り付いてしまったかのように動かない。
「君にとって、俺が絶対だろ? そういう世界で生かしてあげたのに、薄情だなぁ。優しくし過ぎたのかなぁ。これからは、厳しくいくからね。ちょうど、珍しい素材を欲しがってる変人がいるんだ。俺と理解し合えるまで、君をとことん弄んでくれるだろうさ」
不敵な笑みを浮かべ、顔を歪めた。
「――おやすみ」
直後、首の後ろに痛みが走り――気を失った。




