過去に縛られて
-N.N. ホテル屋上 夜―
感情のまま、サンドバックのように巽君を殴り続けた。しかし、先ほどまでとは違ってその目から戦意は微塵も感じられなかった。時折、苦痛に顔を歪ませながらも、自分の攻撃を受けとめ続ける。
(なんだ、まるで別人じゃないか……巽君)
憐みの視線で、自分を見続けている。
(どうして? どうして、そんな表情が出来るんだ。自分がそんなに惨めに見えるの? でも、今の君は自分と一緒じゃないか。あぁ……でも、コントロールされているのは自分だけか。なんでだよ。こんなに弱っちい君が抑えられるんだよ)
自分の方が生きている年数も経験も多い。こんな所で、負けてしまうだなんて納得がいかない。
(何が違う? どこで差が……)
数百年の記憶から、予想力の高さには自信がある。ただ、そこには自覚する脆さがある。この記憶にないものは、まるで分からない。
『じゃ~ん、本だよ! これを読んで、いっぱいこの世界のことを学ぼうね!』
(くそ……)
未熟さを痛感する度、憎たらしいあの男の言動が蘇る。自分をこんな体に変え、壊した張本人。時を超え、姿を変え、名前を変えて、常に自分を弄び続けた。
忌むべき存在であるというのに、皮肉にもそれにすがり続けている。今の自分は、あの男によって形成されているのだ。
『大丈夫、いずれ君の目にもちゃんと焼き付けてあげるから。それまでは、想像だけで楽しんでね。経験は、君の力になるからね……』
――殺しなさい、殺すのです。殺すのです、殺しなさい――
「うるさいうるさいうるさいうるさいっ!」
忘れたいことに限って、忘れられない。聞きたくないことに限って、耳に入る。耐えられない。その不快感を全て巽君にぶつけていく。
それでも、彼は逃げない。それが、余計に癪に障る。こんなことで、赦されるとでも思っているのか。自分は、自分は――。
「――ジャンヌ、駄目だ。こんなことは」
気が付けば、彼の手が頬にあった。分からなかった。中で起こっていることばかりに囚われ過ぎて、なんてことのないものを見逃してしまったのだ。
「やめよう。僕らの生きていた時代じゃないし、僕らの体じゃない。もう眠ろう」
そう言った、彼の雰囲気は変わっていた。
「っ……ぅ!」
その雰囲気に誘発されて、どうにか抑え込んでいた怒りが溢れ出していく感覚を覚えた。
「少しだけ、僕らに時間が欲しい。ごめんね」
ぷつり、と頭の中で糸の切れる音が響く。
「ふざけたことをっ! どの口が……それを言うのですか! 世界を混乱に貶めた貴方が偉そうにっ!」
自分の意思とは裏腹に、口が勝手に動いた。
(まずい、なんてことをしてくれたんだっ!)
憤りを覚えながらも、何とか奪取しようと意識を体に集中させたのだが――まるで無意味だった。




