向かい風
―ファートゥム 山 夜中―
これは悪夢だろうか。それとも、悪い冗談だろうか。
(ありえません。ありえません……こんなこと。だって、バランサは……)
しかし、ヴィンスの手の中で煌めくナイフの切っ先は私を真っ直ぐ見つめていた。体が奥底から冷えていくのを感じる。冗談にしては、長く引っ張り過ぎている。
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ、苦しみは一瞬ですから」
「だってよぉ、良かったなァ」
「なんで……なんで、騙したんですかっ!?」
どうして、私ばかりがこんな目に。ただ信じただけだったのに。差し伸べられた手を、掴んだだけだったのに。安心が欲しかった。独りは嫌だった。光が見たかった。闇から逃げたかった。そんな願いは届かなかった。
「だってさァ? 不平等じゃねぇかァ? オレが尽くしても、お前は尽くしてくれねぇんだろ? だからァ、これでバランスが取れるんだよ。お前の死で、オレに尽くしてもらうからなァ。ギャハハハハハハハ!」
「相変わらず、下品な笑い方ですねぇ。バランサ。とりあえず、邪魔なんであっち行ってて貰っていいですか? 邪魔されると、ついうっかり殺してしまうかもしれませんから」
「ちっ、うぜぇなァ。さっさとやれよ」
彼女は舌打ちをすると、端へと移動する。
「あのお城での、しおらしさを思い出して欲しいですよ。まったく!」
ヴィンスはわざとらしく頬を膨らませると、力強く一度地面を踏みつけた。
「うっせぇなァ。そんなことやっても、一ミリも可愛くねぇんだわァ。さっさやれ!」
「家族とのお別れなのに、執行までの時間を楽しまないなんてナンセンスですよ~」
彼は呆れ混じりにナイフを振り回しながら、じわりじわりと私との距離を詰める。
「家族ぅ? 面白れぇ冗談だなァ。てめぇらのことなんて、これっぽっちもそう思ったことねぇわァ。全員、オレの踏み台だよ」
「ふぅ~ん。それをエトワールが聞いたら、怒られちゃいますよ」
「オレの家族はなァ、てめぇらなんかじゃ役不足なんだよ」
「う~ん……だ、そうですよ。ファートゥム。残念ですね」
「来るなっ! クゥァアアアァアアッ!」
姿をカラスのものに変え、翼を大きくする。そして、羽ばたかせて風を起こす。これが、私の能力だ。他のカラスには出来ない、強化能力だ。原初の時代には、皆が当たり前に使えた能力。次第に失われ、伝統を重んじる私達の一族しか使えなくなった。
「わぁ! 凄い風! いや、もう嵐ですね!」
「あァ!? もううぜぇ!」
バランサは吹き飛ばされそうになっていたものの、ヴィンスの周りに風は吹いていないのかと思うくらい平然と迫る。両手を広げて、どこぞのパフォーマーかと思うほど。
「貴方のその力には、どれほど助けられたでしょうね。でも、もういいんですよ。もう役割は終わりました。長い間、本当にありがとう……ボスもそう仰ってましたよ~。忙しい方なので、私が代理という形になってしまいましたが、質は保障しますよ。これでも、要人を暗殺してきた身ですから。これ以上、こんな地獄で罪を重ねる必要なんてない。早く楽になりましょう。この私に身を委ねてさえくれれば、一瞬で全てが終わります。裏切ったとしても、貴方は家族。今までの絆が否定されることは決してありません。さぁ、夢の世界はすぐそこですよっ!」
そして、向かい風などものともせずに素早く私の前まで走り、そのナイフを振り下ろした。




