大胆な登場
―ファートゥム ホテル 夜中―
ホテルを転々とする生活を始めて数日。不安で眠れない日々が続いた。ベットの中で恐怖に怯えて、固く目を瞑る。
信念を捨て、人の顔を手に入れた。ボスはこの顔を知らない。だから、少しの間なら目は誤魔化せるはず。でも、そう長くはもたない。
(一日が長いです……夜も明けないです)
祈るしかない。願うしかない。バランサが、一分一秒でも早く来てくれることを。風の囁きも、悪魔の笑い声に聞こえてくる。上の部屋から聞こえる足音も、変に恐怖を煽る。あらゆる物音に対して、極端に敏感になっていた。
(これが、周りの皆が持っている感覚なんでしょうか。凄いし羨ましいと思っていたけれど、常にこの状態が続くなんて辛いです。これが当たり前なんて……ん?)
風の囁きとも足音とも違う、不審な音が響いてくるのが聞こえた。素早く真っ直ぐに、こっちに向かってくる。次第に、それが羽ばたき音であると分かった。
私は飛び起きて身構え、窓を見据える。夜の闇では、その翼が白か黒かなんて見分けがつかない。しかし、確かに影が勢いを落とすことなく迫ってきていた。
(もしも、ボスかボスの刺客だったら……終わりです。戦っても勝てるはずがないし、逃げてもすぐに捕まって――最終的には殺されてしまいます。どうか、バランサでありますように)
一族の掟も誇りも、信念もプライドも捨てた。皆が生きていたら、私はきっと罰を受けただろう。一族の長の継承権も剥奪されていたに違いない。もう存在しないことを考えても仕方がない。現実には、一族は決して蘇らない。
儚くて短い夢物語だった。そんな空虚なものに思い焦がれていた。いい加減、受けとめなければならない。どれだけ優れていても、この世界の住人には決して超えられぬ一線がある。ボスも然りだ。今、気付けたのは現実を見ろという暗示だったのだろう。
「――あぁ!」
祈りが通じたのか、こちらに向かってきていたのは――笑顔のバランサだった。思わず、喜びの声を漏らしてしまう。
「まァァァァたせたなァァ!?」
そして、彼女はそのまま窓を突き破って部屋へと着地した。まさかの行動に、私は対応し切れずに直に浴びた。
「わりぃわりぃ。てか、お前……なんで、その顔なの? 早くそれやれよ。それが目立つから、わざわざ夜中にしてやったってのに」
「ごめんなさい」
「まァいいわァ。行くぞ! さっさと行かねぇとなァ! 騒ぎを聞きつけて、ホテルの奴らが来ちまうぜ」
彼女は笑いながら羽ばたいて、外に出る。そして、早くこっちに来いと手招きをする。
(乱暴な入り方をするからでは……?)
しかし、彼女任せにしている私は文句を言える立場ではない。
(ごめんなさい。ホテルの人。全てが落ち着いたら、お詫びに来ます。ですから、今だけは……!)
申し訳なく思いながらも、ここは彼女の後を追った。




