イレギュラーのユダ
―N.N.ホテル 朝―
少し肌寒い朝だった。ベットの中が温かい分、その反動が辛い。何もなければ二度寝確定だけれども、そうもいかない。自分が廃人になってしまわないように用意された仕事が、おはようと待ち構えているからだ。
「ふぁぁあ……今日は何の仕事だっけ? って、アマータはいないんだった。イザベラは、別室だし……変なところ意識しなくていいのに」
アマータが第一秘書をしていてくれた時の癖が抜けない。アマータは容赦がないから、平然とパーソナルスペースに入り込んでくる。当時は鬱陶しいことこの上なかったが、いざそれがなくなると戸惑ってしまうものだ。
イザベラは、変に色々なものを守ろうとする。距離を保とうとしてくる。スイートルームなんだから、別室をわざわざ借りなくてもそれぞれの空間は守れるのに。どちらも極端だ。
「ま、いいか……多分、一時間後にサイン会だった気がする」
(どの役だったけ。でも、大抵ピアニストの時なんだよね、こういうのって。じゃあ、このままでいいかな。違ったら、イザベラがどうにかしてくれるでしょ)
眠い目をこすりながら、ベットから立ち上がる。そして、真っ直ぐにドアへと向かう。
(さてさて、ドタバタして大変だけれども……来客があるみたいだし、まずはちゃちゃっとそっちを処理しようかな)
ノックなりなんでもしてくれればいいのに。普通だったら気付かずに、出かけるまで待ちぼうけになる。自分を相当に信用してくれるのはありがたいけども。
ドアを開けてみると、そこには案の定エトワールが待ち構えていた。
「おはよう、エトワール。いつからそこで待ってたの? 君がわざわざ来るってことは、何か大事な要件があるってことだよね。入りなよ、廊下は寒いでしょ」
「おはようございます。数時間程前からですので、それほど待っておりません。では、失礼致します。簡潔に済ませますので」
(体感どうなってるんだろう)
「うん」
中に招き入れると、エトワールは跪く。もう突っ込まない。突っ込むだけ無駄だ。何度言っても、跪くのだから。
「単刀直入に申し上げますと、ファートゥムが裏切ろうとしています。バランサに声をかけ、彼女も乗り気です。計画はバランサが立てるようです」
「おやおや、それは穏やかじゃないねぇ。やるかもとは思ってたけど、フフフ」
彼が逃げ出そうとするのは想定内だった。しかし、あのバランサに協力を仰ぐなんて何というイレギュラーだろう。やはり、巽君の力の影響が広がりつつあるみたいだ。平凡の寄せ集めの者達が相次いで、自分の想定からはみ出すなんてありえないからだ。
「どうされますか?」
「まぁ、それは――」
その時だった。勢いよく、まるで弾丸のように窓を割って――噂の人達の一人が飛び込んできた。破片の飛び散る範囲は想定内だったので、避けられた。我ながら、かっこよかった。褒めてくれる人は、誰一人としていないけど。
「っと、失礼失礼。ちょっと急いでてよ。ったく、危ねぇ危ねぇ」
破片を払いながら、翼をしまう。そして、跪くエトワールを鼻で笑って、自分を見つめる。
「エトワールとてめぇが二人……何を話してるかは何となく想像出来るなァ」
「無礼だぞ。場とその身分を――」
「うるせぇ、馬鹿がァ。このオレがわざわざ出向いて話そうとしてんだからよ、黙れよなァ? ま、大好きの想定内かもしれねぇがよ。一つ、言っておきてぇことがある」
そう言うバランサの顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。




