母なる者
―街 夕方―
奇妙なことに、僕を抱き寄せる女性の匂いは徐々に変化していった。
(この匂いは……)
知らない匂い、けれど分かった。本能的な安心感を、今までよりも深く与えてくれる。
(母上の……)
僕を生み、それが原因で亡くなった実の母上。特別な魔術で、姿と声を見たことはあれど実体のない母上の匂いなど知る由もなかった。なのに、何故かそう感じてしまっていた。
「嗚呼……触れれば触れるほど、分かるわ。貴方の気持ち。怖いのね、不安なのね。大丈夫、お母さんがいる。こうしている間なら、お母さんはお母さんを取り戻せて……貴方の母になれる」
「言っていることがよく……分かりませんが……」
「お母さんもよく分からないの。分からないって怖いわよね。だから、貴方のことを理解出来るの」
すると、彼女は優しく僕の顔を上げて、頭の上に手を置いた。途端に、目の前の光景が一変した。
「は、母上……?」
(違う、そんな訳ない。だってもう、母上はいない。死んでしまった。あの魔術を使った訳じゃない。ようやく、成仏出来たんだ。でもっ……)
厄介な女性の姿は消えて、そこにはたった一度会ったきりの母上の姿があった。穏やかな笑顔で、僕を見つめている。これは、幻想。すぐに察した。それでも、拒絶することが出来なかった。
「怖くない、怖くない。今は、甘えていいのよ。貴方の心の中にいるお母さんだと思って? お母さんにとって、この世の生物は全て子供。母なる者の全ての母、全ての子供の母。恥ずかしがることも、遠慮することもないわ。さあ、安心してもっと身を委ねて」
(やっぱり、この母上は本物の母上じゃない。だけど――とっても温かい)
もしも、母上が生きていて、こんな風に抱きしめてくれることがあったのなら……僕は同じことを感じただろう。幼い子供の頃に触れられなかった、その温もりに大人気なく身を委ねてしまう。
そして、心の奥底で抱いていたものを気が付いたら吐露してしまっていた。
「母上……貴方は命がけで僕を生んだと仰いました。僕を生んだことに後悔はないとも。僕を恨むはずもない、だから強く生きて欲しいと。でも、その言葉が今は苦しい……母上からのその言葉は、僕にとってあまりにも重過ぎたんです。贅沢だって分かっています。けれど、とても辛いです……」
自らの意思で、母上は僕を生んだ。他からのプレッシャーはあっても、自ら選択した。たとえ、命を失うことになっても構わないと。その命の重み、僕が背負っているものの重みは計り知れない。
母上に生れ落ちた瞬間から救われた命。それからも、ずっと誰かに救われその度に犠牲にしてきた。他の命を奪ってきて、もう穢れしかない。僕は、母上から譲り受けたものを台無しにしている。
「うん、うん……辛いわね。もっとあるでしょう、貴方の抱えてきたもの。もっと、吐き出してご覧。お母さんに言ってご覧――」




