その瞳の先
―街 夕方―
責め立てられるようなことはしていない、それだけは胸を張って言えた。見ていたのも、どちらかといえば猫の方だし。勘違いも甚だしいが、この状況で何もしないのも心苦しいし面倒なことになるのが目に見えた。
「酷い、酷いわ……本当に酷い。あたしは何もしていないのに。あぁ、でも何もしていないから馬鹿にされるんだわ。ううう……」
「あ、あの……大丈夫ですか。あと、僕は別に貴方を馬鹿にしていません。そう思わせてしまったのなら、すみません」
「大丈夫? 大丈夫に見えるの? このあたしが」
(やっぱりこの人、面倒な人だ)
道端で偶然目が合っただけの人に、これ以上の言葉がけなんて出来るものか。名前も知らない、どんな境遇にあるのかも分からない。女性の気持ちが一切汲み取れないし、理解出来なかった。どういう神経をしているのかも。
「あ、いや……そういう訳では。確認というか、何というか」
「みゃ~ぉ」
すると、どうしようもないこの状況に切り込むように黒猫が鳴いた。
「あぁ、ごめんなさい。本当に、あたしって駄目な女。生きている価値がないわ」
僕にはただ鳴いただけにしか聞こえなかったが、彼女はそうではないらしい。まるで、会話が成立しているかのような雰囲気だ。お互いに使っている言語は違う。けれど、それを理解し合っている。でなければ、この状況が明らかに不自然だ。
「ごめんなさいね。あたしって、厄介な女よね。見ず知らずの相手だものね……えぇ、分かっている。分かっているの。なのに、どうしようも出来ないの」
「みゃー!」
黒猫は、爪を立てる。
「痛い、痛いわ。分かってる、分かってる。やるわ、ちゃんとやる。特別なことでも何でもないけれど……これで、あたしももっとあの人に必要とされるのよね。ねぇ、貴方」
それがいい薬になったのか、彼女は落ち着いた様子で再び僕に視線を向けた。しかし、その僕に向けられているはずの瞳には、僕以外の誰かを映しているような気がした。気味が悪くて、寒気がした。
「何ですか?」
蝶が飛んでいることといい、夕暮れのこのぼんやりとした光といい、喧騒に包まれる街に溶け込まない彼女をより気味悪く仕立て上げていた。
「もうちょっとこっちに来て」
そう言って、彼女は僕を手招きした。それに合わせ、黒猫は彼女の膝から降りる。
「は?」
意図が分からず、思わず反射的にそう返してしまった。これ以上、近付くのは気が引けるという思いもあった。
「……あぁ! 冷たい瞳、あたしのことを軽蔑している目だわ! ほら、やっぱり駄目よ。あたしなんて、あたしなんて……もう頑張れない。頑張れない、頑張れないわ!」
彼女の目に、再び涙が溜まっていく。泣き喚かれたら、また僕が悪いみたいに周囲の人々に思われる。
「行けばいいんですね、行けばっ!」
致し方なく、僕はさらに彼女に歩み寄った。距離感は、爪先と爪先がぶつかり合うくらいだろうか。彼女が立っていれば、息がぶつかり合っていたかもしれない。
「えぇ……そう、そうよ」
「わっ!?」
刹那、力強く彼女に抱き寄せられ、景色が一変する。見えるのは彼女の服、感じるのは匂いと温もり。普通だったら、通常だったら逃れることも抵抗することも出来たかもしれない。
けれど、それを僕自身の気持ちが咎めた。安心感すらあった。彼女に、全てを委ねてしまいたくなるほどに。




