黒い蝶
-コットニー地区 昼-
聞こえるのは、通りを駆け抜ける風の音と僕の足音だけ。感じるのは、染みついた血の臭い。嫌なものだって思わなければ、この甘い香りに負けてしまいそうになる。
(やはり、嗅覚は変わらず異常だ。この嗅覚が、一番最初に目覚めてしまったのかな。今までは特に気にしていなかったけれど、使えないものがあるって分かると……何かなぁ)
人並みの嗅覚があれば、特別困ることなんてないはずだ。戦いの時には役立つことも多いが、敏感過ぎるこの鼻では生きていくのが大変だ。分からなくてもいいことまで、感じてしまうから。欠点がないものなんてありえない、それが大きくなればなるほど、欠点が枷のように見えた。
(……こんなことを、うじうじと考えているから駄目なんだよな。集中しないと。黒猫の匂いが、ここにあるかどうかを考えよう)
ここに来るまでの道のりにもないかを探ってみたのだが、先日の雨や他の強い匂いによって掻き消されてしまっていた。時折、それっぽいものを感じることはあっても途切れてしまっていて、辿り着くことはなかった。
(今の所、この辺りには感じないが……)
意識を鼻へと集中させていく。カビの臭い、水の匂い、レンガの匂い、血の臭い、他の動物の臭い、そして――。
(これは……? 人の匂いと沢山の花の香り? でも、ここは一応断ち切り禁止のはず。いるのはたった一人、花もこんな場所には不釣合いだ。一体何なんだろう?)
不審に思い、僕は白い瓦礫の山々を横目にその匂いを辿った。相手には悟られないように、遠くから見て何者かを判断しなければならない。慎重な行動が必要になる相手がいたら、とりあえず一度ここを離れるつもりだ。何かを探索する時に、そんな人物がいたら危険過ぎるからだ。
細心の注意を払いながら進んだ先、そこには異様な光景が広がっていた。
(なんだ、これはっ!?)
この場所には、白以外の色は基本的にカラスと人間以外になかったはずだ。それなのに、何故か今この場所にはその瓦礫の山の間から無数の黒い薔薇が咲き乱れていた。薔薇が生えるような環境は、これぽっちも整っていないはずなのに。
そして、その薔薇の周りには黒い蝶が飛んでいた。ひらひらと優雅に。その歪さに、僕は美しさを感じてしまっていた。
(この蝶、どこかで……)
ふわりと、一匹の蝶が僕の頭上を舞った。その瞬間に、何が起こったのか――蝶は姿を変えて、一人の女性になった。
「え!?」
僕は、彼女を知っていた。遠い日に一度だけ、僕は彼女と言葉を交わしたことがある。
「蝶の散歩の妨害をすると、冥界の迷い子になってしまうぞ。こやつらは、触れた魂を見境なく連れ去ってしまうのだから」
この国には珍しい黒髪に、黒い着物。そして、恐らくして共通の珍しさであろう黒い唇と地面につきそうなくらいの長髪。彼女からは、人ならざる力を感じた。
「久々だな。もう一年は前になるか? 嗚呼、場所もお前の国だったか」
「どうして……貴方がここに」
「私は、この世界にある魂を管理する立場にある。ここでは、死んでもなお成仏出来ずに留まっている者が多くてね。仕方なく、私自ら出迎えてやった次第だ。まだ、その処理は終わっていない。邪魔をしないで貰いたい。後でいくらでも、見て回ればいい」
彼女は長髪をなびかせると、両手を天へと掲げた。




