どこかにある光を
―街 夜―
バケツの水でもひっくり返したような雨の中、僕はただ傍観していた。やがて、悲鳴も聞こえなくなって静寂が劇場を包み込む。感じるのは、異臭だけ。色々な人の臭いが混ざっている。けれど、この雨だ。外に漂う臭いが失われるのも時間の問題だろう。そして、ついに僕を拘束する必要もなくなり、泥の手は消滅した。
この異変を知っているのは、現時点で僕と黒猫だけ。突然の雨と元々廃れていたこともあって、人の姿は見当たらなかった。
「ヴヴヴ……」
すると、劇場内から巨大で不気味な影がうなり声を発しながら現れる。薄れかけていた血の臭いが、再び強くなる。それに紛れて、人とも獣ともつかない奇妙な臭いが漂ってくる。あの奇妙な男性と同じ。
(狼……だけど、この臭い。僕は知ってる)
やがて、その姿は鮮明になる。よだれを垂らし、真っ赤に染まった毛を濡らしながら近寄ってくる。抑え切れない食欲を携えて。その瞬間に、推測は確信へと変わった。
(僕と同じだ。元々は、人間だった。忌まわしき技術によって……その姿を、滅茶苦茶にされたんだ)
すれ違ったあの瞬間に、彼をとめていればこんなことにはならなかったかもしれない。傍観などする必要もなかったかもしれない。他の知らない誰かが傷付くことはあっても、親切にしてくれた劇団員の人達が血に染まることなどなかったかもしれない。
(どうして……? どうして、わざわざ中に入って彼らを襲ったんだ? あの時、僕に何が出来たんだ? 何故、あの瞬間に行動を起こさなかったんだ?)
あの不審な様子、そしてどっちつかずの臭いを感じた時点で彼は明らかに普通ではなかったのに。行動を起こさなかった自分に強い苛立ちを覚えた。
「グルルルルル……」
僕が自責の念に駆られている間にも、獣はゆっくりと距離を詰めてくる。このままでは、危険だ。僕はともかく、隣で呑気に毛づくろいをする猫が。
(希望は捨てちゃ駄目だ。きっと、生きている。しかし、今は僕に間違いなく目をつけているみたいだし……ここで、全て終わらせよう)
怪我は浅いかもしれない。深手を負っていても、今ならまだ治癒魔法だって有効かもしれない。街にあることだし、医者だって近くにいるだろう。まだ終わってはない。安寧の為の過程で、僕が見捨てた人が犠牲になるなど聞いていない。それに――。
(彼だって、好きでこんなことをしている訳がないんだ。僕は、彼を人間に戻す方法を知らない。でも、このままでは彼は罪を重ね続けることになるだけだ。なら、せめてその連鎖をここで……僕が彼を殺して、罪を背負う!)
彼が、こうなってしまった経緯は知らない。けれど、何者かに心の隙に付け込まれてこんな姿にされてしまったことは分かった。何故なら、僕がそうだから。僕がこうやって、人の姿を保てているのは一種の奇跡であるから。
(最善とは、最良ではない。最悪でもある)
役の中で執事の言った台詞を思い返し、言い聞かせた。立ち向かう勇気を、度胸を、覚悟を自分自身に刻み込み剣を取り出して立ち上がる。
「――来いっ!」
(すぐに……終わらせてやる!)
闇を払う為、どこにかにある光を掴む為に僕は獣へと突進した。




