禍福
―アシュレイ 不思議な空間 ?―
『――ここは』
気が付くと、私はよく見慣れた懐かしい風景の中にいた。ここは、かつて私の過ごしていた研究所。私の生まれた場所。そして――私が裏切った組織の多くの者が生まれた場所。歴史の陰に消えた真実の墓場。
『夢? いや、それにしては妙に……じゃあ、これは』
夢にしては浮遊感がない。しかし、現実であるはずがない。何故なら、ここは戻れるはずもない過去だから。もしかしたら、死の間際に見る走馬灯に近い現象なのかもしれない。
『これが最期に見れる光景か。幸せ者だ。地獄に逝く前に、あの日に戻れるなんて……』
浸る気分で、私は思い出の中をゆっくりと歩む。懐かしい。私が永遠を過ごすと思っていた研究所と寸分の狂いもない。恐る恐る机に触れると、その木目の感触を確かに感じた。
『あ、嗚呼……こんなことってあるんだ。私に、こんな権利があるんだ』
それだけでも十分だったのに、幸せに包まれていたのに、さらにとんでもないことが起こった。
「もっと早く歩きなさいよ」
冷たくて冷え切った愛おしい女性の声――反射的に、私は声の聞こえた方に体を向けた。
『あ、嗚呼……!』
漆黒の髪をなびかせ、万物に興味を失った顔でこちらに歩いてくる。私は彼女に触れようと、手を伸ばした。しかし、私の手は彼女の温もりに触れることは叶わなかった。するりと、私を通り抜けていった。
『そうだよね。そこまで満たしてくれる訳がないんだよ……いいんだ、見れるだけでも幸せだ』
彼女の名前は、ケライノー。私とイザベラの実の母親。私達のことなど、たったの一回も愛してくれたことはない。私に向けて、笑顔を見せてくれたこともない。
けれど、その冷酷さが私を満たした。組織の襲撃により、亡くなってしまったが。
「ごめんなさい……でも、物が沢山に見えて上手く――」
母の後に続いて、一人の黒髪の幼子が額を押さえ壁を伝うようにしながら現れた。布切れ一枚だけまとったようなその姿、間違いなく幼少期の私であった。
「それはお前が失敗作だからよ。この恥さらし……私の地位が下がったら、どうしてくれるつもりなの!?」
苛立つ母は、幼い頃の私を石みたいに蹴り飛ばす。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「お前はそれしか言えないのか? 全く、同じ姉妹でありながらイザベラとここまで差が出るとは情けない。マーラの温情さえなければ……」
「アシュレイ!」
怒気を含んだ声で、黒髪の少女が部屋に入ってきた。彼女は、尻餅を着く幼少期の私の前に庇うようにして立った。
「あら、イザベラじゃない。どうしたの? こんな所で、失敗作と戯れている余裕があるの? 実験は終わったの?」
「アシュレイは失敗作でもないし、失敗作って名前でもない! 実の子供なのに……どうして、アシュレイをイジめるの!?」
「私の品位を下げるゴミだから。そんなことよりイザベラ、母親に対する態度がなってないんじゃない? いくら最高傑作と言っても、その態度は目に余るわね」
「品位やら立場やら……もう聞き飽きた! こんな小さな場所でそんな物に執着しても、無意味でしょ? 外の世界で、それを手に入れた方が歴史にも名が残っていいんじゃない?」
「何も知らないくせに、ほざいてるんじゃないわ。それに、マーラの傍にいるから意味があるのよ」
当時の私には、とても難しかった会話だ。二人が何を話しているのか、どうして言い合いをしているのかすら分からなかった。悪いのは私だ。失敗作である私が虐げられるのは当然。幼心に、この喧嘩は無意味だと察していた。
「そうそう、私の傍にいるから意味があるんだよ。それより、私の美しいレディ達? そうイライラしちゃ駄目だよ。折角の美しい顔が台無しだ」
そして、この喧嘩のタイミングに私の最も憎み――憧れる男が蝶のように優雅に現れる。男は入り口でドアにもたれかかりながら、視線だけを卑しく私達に向けた。
「マーラ……ねぇ、この失敗作は本当に私の子供かしら? イザベラとはあまりに違い過ぎるわ。間違えて、他の女の子供を――」
「いいや、違う。アシュレイは、間違いなく私と君の子さ。ご覧よ、私を見るこの冷たい瞳を。紛うことなき君の娘。こんなにも冷たい視線を向ける子供達は、君の子供達しかいないよ? それに、アシュレイに関しては血の繋がりがあろうとなかろうと、子供だろうと大人だろうと、レディであれば誰彼構わず好意を向ける。しっかりと、この私の血を受け継いでいるという証明だよ。残念ながら、召喚者としては失敗だけど。でも、君はイザベラという最高の器を生んだ。君は、私の正妻。イザベラがいる限り、それは揺らがないよ」
「ふざけるなっ! 私もアシュレイも、器でもなんでもない! 見てなさい、必ず一泡吹かせてやるんだから!」
「出来る訳ないわ。子供の分際で。あんたはこの研究所で、器として……死ぬまで働くのよ!」
「そうそう。この花園で生きようよ、永遠に」
イザベラの決意を、母と男は嘲笑った。私だって思っていた。この研究所で、私達は無力だったから。力も刻印によって、制限されていたから。抵抗など無意味、規則に従い自身の快楽の為に生きることが正しい――そのはずだった。
半年後、想定や予想を裏切って、イザベラはあらゆる危険を掻い潜って研究所から逃亡した。その後の母の待遇は、思い出したくもない。元々嫌いだったあの男のことは、恨んでも恨みきれない。
『何が花園だ。母という花を枯らした……お前を私は許せない。でも、母はお前を……頼りにしていた。愛はそこになくても、お前といる時だけ母は笑顔だった』
私は、研究所で落ちぶれた母に元気になって欲しかった。だから、あの嫌いで憎い男の真似をしていた。あの男になろうとした。美しいレディと共に生きることが出来るのだから、それはそんなに苦ではなかった。
しかし、あの日が訪れても、結局母の笑顔を見ることは叶わなかった。
『母がカラスでなければ、あんな男に執着することもなかったのかな。こんなことを考えなくても、いい世界になればいいなぁ。カラスも人も、かつてのように手を取り合ってこの世界を生きていければ……平等に情を持って』
やがて、この夢のような不思議な空間に歪みが生じ始めた。もう、終わりみたいだ。思い出と共に、私の体も溶けるように消えていく。最期の最後に、私はなんて幸福なのか。苦痛も悲しみも感じることなく、一生を終えられるなんて。
私は、誰にも受け入れては貰えなくとも間違いなく組織で過ごした時以外は幸せだった。私は、大切な人を誰一人として幸せにすることは出来なかったけれど。最後の主、アーリヤ様すらも。
『私は、貴方に沢山の幸福を貰った……アーリヤ様は私のクイーン。貴方の駒としては立派ではなかったけれど、一緒にいれて本当に良かった。母の面影も感じられて、傍にいられるだけで本当に幸せでした。沢山のレディと楽しい時間も過ごせて……自由になれました』
イザベラの理想を押し付けられ、縛られていた組織から解放されたのはアーリヤ様の存在があったからだ。私の真の目的を理解し、傍にいることを受け入れてくれた。私のありのままを初めて受け入れてくれた。今の私にとって、全てだった。
『どうか、貴方の幸せも得られますように……』
これらの言葉は、彼女にも届くことはない。もう二度と。私に残された時間は少ない。地獄に堕ちるなら、余計な荷物を置いてすっきりしておかねば。
『イザベラに……いや、でも、私は今までたった一つの目的に向けて生きてきたんだ。よし』
少し考え、私は願いも込めて言うべき言葉を決めた。誰にも伝わらないけれど、ここで吐き出すべきなのは――。
『託すよ。名もなき皆とまだ見ぬ未来の君達に。この世界が、種族を越えて一つになることを――』




