無の空間
―コットニー地区 夕方―
ドールの話を聞いて、少し落ち着いた気持ちになっていた時であった。
「●□×▼♡●▽~♪」
楽しそうで明るいメロディに乗せて、意味不明な歌が聞こえてきた。そして、それは僕にとって――毒だった。
「うう゛あ゛っ゛あ゛っ!?」
頭が割れるような感覚、耳に何かが突き刺さってくるような感覚、何かが内面から込み上げてくるような気持ち悪さ、全てが同時に襲ってくる。
「キング!?」
ドールは突然のことに驚き、僕をさらに強く抱き締め顔を覗き込む。
「い゛た゛……あ゛あ゛っ!?」
言葉として認識出来るものを発することが難しい。頭の中が既にグチャグチャで、言いたいことが粉々に砕け散っていくから。
「●□×▽●~♪」
そんな僕の苦しみの元凶は、何事もないように歌い続ける。どこから響いてきているのだろう、この音楽は。こんなにも僕は苦しいのに、ドールは何ともない様子だ。
「まさか……この音楽がっ! あぁ、そういえば……」
僕の意識が朦朧とする中、ドールは何か思い出したかのように声を漏らした。
「ここから逃げますわ、キング」
彼女がそう囁くと、体がふわりと浮く感覚があった。と同時に、あの耳障りで嫌な音楽は消えた。視界は真っ暗になった。
「……ここは?」
「無の場所ですわ。私達がどこかに移動する時に必ず通る無の空間、音も光も何もない……あの環境から一時的に避難するのに最適ですわ」
「そうか……ありがとう」
きっと、あの場所にいたら僕は正気を保てなかった。体の内面を棒でグルグルと掻き回されていくような感覚、外から何度も叩かれているような感覚、体が奥底から冷えていく感覚。それらの感覚を全て一定に保ったまま、ぼんやりとしていく意識。
あの音楽を聴いただけで、僕にはこのダメージ。一体誰が何の目的で流したのだろう。
「あの音楽は一体……」
「時間を知らせる時計みたいな役割があるんですの。ここに住んでいる者達は時計を見ても分からないことが多いですから、その役目を担う為に。遥か昔から存在するものですわ。だから、今回だけが特別という訳ではありませんわ」
「いつ、いつあの音楽は鳴るんだ?」
「夕方の六時限定ですわ。その時間がマフィアの仕事終わりですから。建物内にいても、聞こえてくる可能性がありますわね」
「それは……困るな」
今までは奇跡的にそのタイミングを回避していたらしい。こんなのを毎日聞いていたら、僕は僕でなくなってしまう。
「あの音楽は誰が流しているんだ?」
「申し訳ございません。私はそこまで把握しておりませんの。ただ、怪しいのは姿がころころと変わるあの男性かもしれませんわ」
「ころころと姿が変わる……?」
「今はアレンという名を名乗っていますわね……不思議な男性ですわ。今、コットニー地区の支配者はキングですし、音楽を変えることを提案してもいいのでは……?」
「あ、嗚呼……そうだね」
アレンさんは、今の姿や名前が元々のものではない……ということでいいのだろうか。だとすれば、彼は一体何者なのだろう。前、さらりとドールと同じようなことを言っていた。と同時に普通の人間である、とも。やはり、あれは軽い冗談だったのだろうか。
そうでなければ、矛盾している。普通に考えて、普通の人間がその姿を変えて何百年も生きることなどあり得ないのだから。




