いいスパイス
―コットニー地区 夕方―
それなりの距離を歩いて、もうあの赤子の泣き声は聞こえなくなった。なのに、滅茶苦茶に入り混じった感情はさらにぐちゃぐちゃになっていっていた。
(なんだ……何なんだ! この感情は!)
『やめて……! この子だけは……』
『この子もお腹が空いているみたいで。最近は疲れ果てるまで泣き続けて、そのせいで彼らに目をつけられてしまって……』
頭の中で何度も何度も、母親の声が再生される。彼女らの苦しそうな姿が浮かんで消えない。
(もし、僕がここで彼女らを見捨ててしまったら……)
こんな劣悪な環境で生きていく為には、食事というものは必要不可欠だろう。特にあの赤子は、成長していく為にさらに重要だ。けれど、それがまともに得られていないということは即ち――死だ。
どちらが最初に死ぬかは分からない。確率的に見れば、あの生命力が弱い赤子だろう。しかし、何があるかは分からない。もしかしたら、母親が先に……。
(母親が死んでしまったら、あの赤子はどうやって生きていく? 誰かが助けてくれるのか? 他に家族はいるのか?)
想像がつかなかった。もしも、母親しか家族が赤子にはいなかったとしたら……基本的に自分のことだけで精一杯のカラス達が他人の子を育てるとも思えないし、あのマフィアが人の心を持っているとも思えない。きっと、殺す。
(……じゃあ、どうすれば?)
どうして、さっき出会ったばかりの弱い奴らのことをこんなにも考えてしまうのだろう。どうでもいいはずなのに。
(もしかして、僕は重ねているのか? 自分に……自分の母上に)
生まれてすぐに母上を失った。だから、僕は母上のことを何も覚えていない。声も小さい頃は知らなかったし、姿も直接見たことなんてなかった。
寂しかった、会ってみたかった、その温もりに触れてみたかった。愛されてみたかった。母親と一緒に、同じ場所で同じ時間を過ごしてみたかった。
「う……うぅ……」
孤独、父上も姉上も妹も弟だっているのに。満たされないその気持ちは、ずっと僕の心の奥底にあり続けていた。そんな気持ちを、あの生まれて間もない赤子が感じることになるのかもしれないと思うとやるせなかった。
自然と体から力が抜けて歩けなくなり、僕は道端にへたり込んだ。
(どうして……こんな思いを僕がしなくてはならないんだ。どうすれば、この思いを解消出来るんだっ!)
***
―アーリヤ アーリヤの邸宅 夕方―
流れ込んでくる、少し不味い感情。しかし、これはいいスパイスになる。
「――ドール、アレン」
わらわの目の前でのんびりくつろいでいた二人は、名前を呼ばれると気を引き締めた表情でこちらを見た。
「ドール、巽の所に行ってやれ。そして、親子を助けるよう言ってやるのじゃ」
「はい」
ドールは一度頷くと、黒く歪んだ空間を発生させてその場に溶けるように消えていった。
「俺は?」
二番手に回されたアレンが、待ちきれないと言わんばかりの表情を浮かべる。
「……巽が、あの親子を助ける前にあの母親とロイを引き合わせよ。そして、ロイには事前に言っておけ。あの母親を利用して、巽を殺せるものなら殺してみよとの。フフ……」
「なるほど。じゃ、まずはあのゴミ筆頭にそう甘い言葉をかけてきますね。あの男は単純ですからねぇ、すぐに乗ってきますよ。フフ、恐ろしい方だ。だから、美しい……ハハハハハハ!」
高笑いをしながら、アレンは部屋を出て行った。
「当たり前じゃろう。わらわの大切なしもべなんじゃから、わらわの為に身を捧げるのは……」




