怖いから
―アーリヤの邸宅 昼―
「ん~すっきりしたぁ」
お風呂から出たエルナは、気持ち良さそうに僕の隣で背伸びをした。彼女は大浴場にあったのか、ピンク色でふわふわのバスロープに身を包んでいた。その下には何も着ていないようだ。替えの物が見当たらなかったのだろう。
そのバスロープが誰の物であるのか、面倒なので突っ込まないでおくことにした。それより、気になったのは――。
(いい匂いがする……これは花の香り? 優しい匂いだな。あれだけ染みついてた血の臭いが嘘みたいに消えている。どれだけしっかり洗ったんだろう)
「それは良かった。で、クッキー作りのことなんだけど」
「分かってるって。教えてあげればいいんでしょ。でも、どこで作ればいいのよ?」
さっきまでの不機嫌な様子も、血と一緒に洗い流してしまったかのように清々しい笑みである。
「君は、どこであのクッキーを作ったんだ?」
「どこ? どこって、そりゃ……家でしょ」
「じゃあ、そこで作ってくれ。ここに、あまり君を長居させる訳にはいかないからさ」
外に出たら、演じなければ。どこで誰が見ているか、分からないから。彼女に何か言われるかもしれないが、その時は無視すればいい。
「……君じゃない。私の名前はエルナ」
彼女は、頬を膨らませる。
「どうして、そんなことが気になる? たかが呼び方じゃないか」
「名前で呼んでくれた方がいいの。美味しいクッキーを作るには、その呼び方が超大事なの」
「はぁ……分かったよ。エルナって呼べば、満足するんだろう?」
「えぇ」
僕にとっては些細なことだが、彼女には重要な問題のようである。僕がそれを認めると、彼女は満足そうに一度大きく頷いた。
「じゃあ、行こう」
そして、僕らは歩き始めた。と同時に、彼女は嘆くように言葉を発した。
「……本当、豪華な場所ね。これを私達の方に、少しでも分けてくれたらいいのに」
「権力者として当然さ。ゴミ達と対等の生活なんて、何も誇れないじゃないか。エルナは分かるかもしれないけど、目に見える形にしてあげないと他のゴミは分からないかもしれないよ」
「アレンも同じようなことを言ったわ。上に立つ者と立たざる者、その住み分けはどんな馬鹿にでも分かるようにしなくてはならないって。だけど、あんなのあんまりよ。マフィア共のストレスの捌け口にされて、どんなに頑張っても食事すらままならない。子供も大人も関係なく、危険な仕事をやらされる。それが出来なければ、殺される。そのストレスにまみれた体を癒す為の場所も劣悪。毎日、沢山の者が死んでいく……少しでも環境が良くなればいいのに」
ここに住むカラス達の表情が、それを物語っている。もしも、僕が彼らであったら絶望し切っていただろう。でも、僕は彼らではない。
「ねぇ、一つ思ったことがあるんだけど、聞いていい?」
「何かしら?」
「エルナ達は逃げようと思えば逃げられるはずだ。なのに、何故逃げない?」
正直、カラス達が束になって逃げだそうと思えば、それなりに死者が出るかもしれないが脱出出来るだろう。なのに、彼らはそれをしようとする素振りすら見せない。
「……怖い、それだけでしょ」
エルナは、悲しそうにそう呟いた。
「怖い……か」
分からないでもないかもしれない。けれど、どうしてあげることも出来ないし、あげたいとも思わない。こんな場所で生きなくてはならなかった自身の境遇を呪うしかない。逃れられない自分の弱さと運の悪さを。
「もうこんな話はいいだろう。さあ、君の家に案内して貰うよ」
話をしている間に玄関に辿り着いた。そして、僕らはドアを開けて外に出た。




