主人の顔は
―レストラン 夜―
また、やってしまった。
「す、すみません!」
僕は膝をつき、床に散乱した料理と皿の破片を必死に搔き集める。お客さん達の視線が痛い。この時間帯は、お客さんが多くて辛さが増す。
ここで働き始めて早一カ月。ここの主人のトーマスさんが、とても寛容な人だということはよく分かった。仏の顔も三度までという言葉があるが、彼は僕のやらかしを三度以上許してくれている。僕が無駄にした料理や食器の数は、計り知れない。そして、今日もまたやってしまったのだ。そろそろ合わせる顔がない。
(また笑って許してくれるんだろうか? どうして、あんなに温かい笑顔を僕に向けてくれるんだろう。僕は迷惑しかかけてないのに)
「ねぇ、ちょっと! もしかしてそれ、私が頼んだ料理?」
近くの席に座っていた、気が強そうで化粧の濃い女性が高圧的に見下ろす。
「え、えっと……」
(こんな化粧の濃いおばさんから注文を取った記憶はない。それに、この料理は……)
覚えたての英語が出てこない。故に、僕は見上げたままの体勢で硬直するしかなかった。すると、中々答えない僕に腹が立ったのか、破片と料理を持つ両手を突然踏みつけた。
ごく稀にいる超がつくくらいの厄介な客。自分は神様だと思っている客。ただ、この人は厄介な自称神様を遥かに超えるやばい客だった。
「っ!」
鋭い痛みが僕を襲う。腕を動かしてみたものの、彼女の踏む力の方が強過ぎて手が抜けない。骨の鳴る音が聞こえる。このままでは、僕の手がぺっちゃんこだ。
「何とか言いなさいよ、お客様を無視するつもり?」
僕は必死に首を振って、無視しているつもりはないと伝える。他のお客さん達は、変な意味で僕らに注目し始める。他のウェイター達は、あまりの忙しさに僕の状況になど気付いていないのか、それとも厄介事に関わりたくないのか、こちらに目も向けない。
「やめなよ、おばさん。ご飯が不味くなる」
そんな時だった、僕に救いの手を差し伸べてくれたのは。
「何? 今は私は……!?」
声のした方へ振り返った時、女性の高圧的な態度が一転した。女性の背後に立っていたのは、真っ赤な髪を持った派手な少女だった。その髪は短く、服装も少年らしいものだ。まさに、ボーイッシュという言葉が良く似合う。
「あっ」
この少女こそが、僕の落とした料理を頼んでいた人物だ。ここで僕の手を踏みつけていいのは、この少女だけだ。
夕飯時、お腹を空かせてここに来たに違いない。やっとのことで運ばれて来た料理は、彼女のお腹に入る前に残飯へと姿を変えた。女性の靴についている汚れと僕の手の汚れ、それに床の汚れも添えたゴミになった。
これから再び料理を作ったとしよう。だが、彼女が料理を食べられる頃には空腹の向こう側に辿り着いてしまうだろう。
「ついでに言うと、この料理を頼んだのは私。間違いないわ。だって、そこに転がってる番号札が私の席の番号を表してるもの」
そう言うと、少女は僕の隣に転がった番号札を指差した。ちょうど、女性の位置からでは死角になっている。
「え? あら、やだわ。オホホ、失礼」
女性はその事実に気付くと、少し恥ずかしそうに足早に自身の席へと戻った。最初、僕に向けられていた視線はいつの間にか、その女性の物になっていた。
「で、私の料理のことなんだけど」
「あ……」
そうだ、まだ何も解決していない。この落とした料理も片付けていないし、料理を作り変えを厨房のトーマスさんに伝えなくてはならないのだ。
「別にいいよ、待つから。それより、災難だったね」
「……すみません。いいえ、僕のせいなので」
「手、怪我してない?」
「大丈夫です、これくらい。食べれば治るので」
「食べれば治るの? 何それ、笑う」
彼女は言葉通り、僕を見ながら笑った。悪意のある笑みでもなければ、冷たい笑みでもない。ただ、その彼女の笑顔に気恥ずかしさを覚えた僕は、この場に居続けるのが苦しくなった。
「と、とにかく後で新しい料理をお持ちしますので……失礼しますっ!」
僕は集めたゴミを魔法で全て浮き上がらせ、それを持ってその場から退散した。