第二部 桃色の蜘蛛、只一つの罪
眠らずに夜を過ごすと、明け方の薄暗さに妙な不安を感じる。
一日の終盤に見かける、夕暮れの薄明かりに妙な安心を感じる。
太陽が登る暗さと沈む時の明るさに何か違いがあるんだろうか…。
空の色。
街の音。
空気の温度。
生き物の声。
匂い。
思考…。
眠らずにいる事で、睡眠への促進作用が、不安という形で思考を刺激するのなら、脳は良く出来たものだ…。
一日の終わりの幕が、静かに降りる事への安堵感が緊張を解くのなら、神経が脳に繋がっている事さえ感じる…。
それでも、太陽の登降による空気や匂い、雰囲気の違いを感じるのは、脳や神経等ではなく、紛れもなく…心だ。
それとも…
本当の自分が、自分自身を否定し、眠らずに朝を迎える事を拒否しているんだろうか?
感慨深く空の色を想っても、果たして同じように気持ちを共有出来る人等、この世にいるのだろうか?
広い大きな空の下、沢山の人。
人には人生があり、悩みは尽きない。
それは、俺も、あそこを走る少年も、おばさんも、おじいさんも、サラリーマンも、女子高生も、
も、
も、
も、
皆、同じなんだろうか…。
冬なのに半袖シャツを着て走る彼の背中には、体の半分程の大きさのランドセルがゴツゴツとゆれている。
あんなに重そうなのによく走れるな…。
彼は、着る物がなくてあんな薄着をしているんじゃないのだろう。
寒くなんてない…へっちゃら。
そんな元気が、弾むランドセルの音と一緒に聞こえてきそうだ。
幼い小さな胸には、すでに恋心を重く抱えていたりするんだろう。
コントロール出来ずに、学校では意地悪をして泣かしてしまい、不安と強がりで、帰り道にはうつ向いて帰ったりするんだろうか…。
それでもしっかり握ったランドセルの肩紐。
そこには教科書と食べ残したパンと、夢が沢山詰まっている。
孫と手を繋いで歩くおじいちゃん……。
繋ぐ手の存在こそが生きる糧と言わんばかりの優しい目だ。
小さなおぼつかない足取りで歩く孫と同じペースで、ゆっくりゆっくり……。
残りの人生、出来れば今のペースでゆっくりゆっくり……。
生き抜いた人生の疲れを、体に年輪の様に刻んだ皺だらけの手で、孫の頭を撫でながら何を思うのだろうか。
そして、繋いだ手、撫でられた頭、その想いは小さな体の心に残るのだろうか。
自分の人生のカウントダウンをすでに感じる一方で、何にも替えがたい宝と手を繋ぎ、歩く先にはどんな輝きが見えるのだろう。
夕飯の買い物を悩むおばさん。
毎日、毎日、毎日、毎日……
家族の食卓に違う色を飾る。
夫の少ない稼ぎの中で、あっちのスーパー、こっちの八百屋……。
財布に詰め込んだスタンプカードとレシート。
その古い財布に染み込んだくすんだ年期が、家族の生活に彩りを育んでいる。
何度も手に取り、原材料をチェックしたりしながら、冷蔵庫には工夫の食料が詰まっているのだろうか……。
女性の大切な無くしたくない何かを、本当は捨てずに心の何処かにしまい込んで、
母であったり、妻であったり、そんな大役を毎日こなし、年に一度のカーネーションに涙するのだろうか。
終電に駆け込むサラリーマン。
私はこの漠然とした“サラリーマン”と言う総称が好きじゃない。
世の中の大半がサラリーを得て生活をしている。
くくりの良くわからない、ひとまとめな総称で呼ばれる戦士達。
あの電車の車窓に映る自分を、毎晩褒める事が出来ているんだろうか。
疲れが自らを老いて見せ、それでも明日の書類に目を通さなければいけない、褒める事などいつの事か…。
または、車窓の自分と無言の対話を繰り返し、降りる駅をやり過ごしたりしないだろうか。
自問自答の問いを聞き、答えてくれる家族が迎えてくれるのだろうか。
ケバい化粧で顔を覆う女子高生が、コンビニの前に座っている。
人は彼女らに怪訝そうな目を向け、彼女らまた、知らん顔で馬鹿笑いをしている。
少し前までは同じような歳……。
彼女達の友情は確かな物なんだろうか。
互いに見合わす、化粧の下の素顔や、本当の心をわかり合えているんだろうか。
流行りを追いかけ、浅瀬で優雅に遊ぶその奥にある、小さな夢や希望を声を大きく話し、素顔の美しさをわかり合える、本当の人間関係。
そんな化粧の出来ない心を、若さと言う衣で隠しているようにも見えるな……。
綺麗な素顔と、真っ白な心も、たまには誰かに見て貰いなよ。
本当の自分がわかるから。
私にはそんな事すら無理だったんだから。
街には営みが幾重にも重なり、様々な音と匂いと色を作る。
早朝の不安は、動き出す街の流れに乗り遅れないように…。
いや、世の中が始まるそのものが不安感を呼ぶのかも知れない。
夕暮れの安堵は、一先ずの休息の合図の色に、ゆっくりと荷物を降ろせるから……。
何事もなく終りに近付く合図の様な物。
眠りから覚める朝の動きの隙間を縫うように、私は家路へと歩いている。
でも私は、思考に優しく語りかけてくる、この街も世の中も信じていない──。
考えるのは……よそう。
─エリカさん、すごいよ今月!
─そうなんだ……。
─もっと人増やそうよ。皆絶対乗るんじゃない?
─人が増えるとそれだけヤバくなるよ。私の知らない奴なんか入れても面倒見きれないからさ。
私は小さなグループを作った。
高校を卒業してすぐの話。
『ピンクスパイダー』
いつしか、誰かがそんな名前を付けていた。
私達には似合いの名前かも知れない。
桃色を武器に、桃色を餌に、網を広げてカモを待つ……。
窃盗、援交、くだらない雌の喧嘩の後押し……。
何でもやらせていた。
喜んでついて来る彼女達。
どうせふざけた学生生活を送って来た、若しくは送ってる娘達だ。
そう……、私をいじめていた奴らと大して変わらない。
金と頭で尻尾を振って、体を売って……。
下らない大人になって行くんだから。
下らない大人……。
あの親や、先生や、廻りの大人達みたいな。
世の中の優しい部分なんて見たくない。
騙されたくもない。
私ももうすぐ、そんな大人になるんだから。
あの日の些細な出来事がなければ、見なくて良かった、“空想の中の優しい世の中”……。
私は普段、窃盗も売りもしない。
指示をして、仕切るだけだった。
金と頭を使えば、馬鹿な彼女達を動かすことは簡単だったから。
あの日──。
何気なく歩いていた深夜の駅傍の裏通り。
酔っ払った若い男が道端に寝ていた。
デニムのポケットからは、長財布が顔を出し、今にも落ちそうになっていた。
─ウチの娘達なら飛びつくカモネギだな……。
そう思いながらも、
─たまには自分も手を染めようかな……。
そんな気分にもなりはした。
私は自分の心の“善”が嫌いだ。
辛い仕打ちが必ず裏切りを返してくるから……。
でも、いつもそこには葛藤が有り、その時もやはり財布には手を出す事をせずに、その場を離れようとした。
─私は別に善人じゃない……寧ろ最低の人間なの。
そう自分に言い聞かせながら、男の前から離れようとした。
その時……。
男の財布がポケットから地面にずり落ち、思わず立ち止まってしまった。
男に声をかけようとした時、彼が目を覚ましたのだ。
またしても、返ってくる“裏目”。
─あぁ……?何してんだ、お前?
─別に……。
─……ん?お前財布すろうとしたんじゃないか?おら…っ。
─勝手に落ちたんだよ。
私は“また”と思いながら、その場から離れようとした時、
─待て、コラァ…ッ!
そう叫びながら立ち上がり、私の腕を男が掴んだ。
酔っ払って足取りはふらついてはいるものの、予想外の力の強さと“誤解”に心が折れそうになる。
─学生か?違うな、見逃してやるから、ちょっと遊ぼうか……なぁ?
払えない手を通して、理性の無さが伝わって来る。
─離してよ……!
こんな事ならやっぱり盗っておけば良かった。やっぱりいつもこうなんだ……。
然程大きな声も出せず、それでも小さく叫びながらそんな事を考えた時、死角から声が聞こえたんだ。
─何してんの?
ふいに現れた男。
どこから来たのかもわからない彼は、私が振り払えなかった手を簡単に……容赦なく払い、酔った若者と私に距離を作った。
いや……“作ってくれた”。
─もう行っていいよ。そこの交番に声だけかけといて。
男の声は聞こえていた。
でも、私はその声を聞き終えるよりも先に駆け出していた。
──動揺…。
今までの人生で、困っている時、善の心を動かした時、迷っている時、自分の味方になってくれる物も者も無かった私。
そう言う“星”なのだと思い込んでいた私。
今日もそう……。
普通の人としての心を動かしたが為に、起ころうとした災難。
突如現れた“味方”に動揺した私。
走って逃げながらも、動揺しながらも、“助けられた”という感覚に戸惑い、振り返る事も、勿論警察に向かう事も出来ずにいた。
物事ついた時から、初めて……確実に、力強く、一瞬で“助けられた”のである。
しかもそこに感じた彼の……無心。
─エリカさん、どうしたの?浮かないね。
─うん…何でもないよ。
─昨日の上がり渡しとくね。
“仲間”とされている娘達が稼ぐ色銭……。世の中の物差しだ。
─そうだね……預かっといてよ
─…え……いいけど……今日も何人か男繋げそう?
桃色や黒を求める彼女達。そこに善悪や羞恥や罪悪や後悔や重要性等ない。
─悪い、今日は駄目そうなんだ……。
─…あぁ……そうなんだ。じゃ言っておくよ。でも夜は盗らすよ、また連絡する。
彼女もまた、本当の“仲間”じゃない。いつでも裏目に廻るその他大勢だ。
─うん?あ……夜ね……。
─何?
白い心を出してはいけない……。
裏目に出ると辛いだけだ。
─いや、何でもないよ。
彼はあれからどうしたのだろう。
警察が助けに来なくても、多分大丈夫な感じだったのだけど。
─お礼も言えなかったな……。
顔もはっきり見えないままに、夢中で逃げた事に少し後悔すら感じた。
今までに味わった事のない、穏やかな気持ちと、“安心感”を感じていた。
そして何より、どんな黒い事をしても感じなかった、罪悪感を感じていた。
多分何事もなく家路に付いたであろう彼だけど、私はただ助けられて放って逃げた。
最低で最悪な大きな罪を一つ犯したような気になっていた。
彼は私が本当は求めている“白”を、僅かだが確実に垣間見せてくれた。
あれからも、日々目に映る街の動き。
少し優しく見える人の営み。
前にも増して感じる、朝の不安。夕方の安堵。
明け方の不安は罪を感じてからはより大きく、夕方の安堵はどことなし、あの時の感覚に似ていた。
たった一つの優しさが、こうも暖かなものだったなんて、今まで知らずにいた。
引き替えに、胸に留まって消えないモヤは晴らし方すらわからずにいた。
自分に疑いつつも、私自身さえも捕えてしまった色の付いた“蜘蛛の糸”。
桃色の蜘蛛から逃れればいいのか、それすら果たして出来るのか……わからない程に絡まる糸。
ある日、駅前でグループの一人の話を聞いていた時、偶然見かけた白い影。
喧嘩の始末さえ、彼氏に頼んだ馬鹿な女が自慢げに話す。
─んでぇ、彼氏にボコって貰ったんだ……。
その時、横を通り過ぎた白い影は、まさしくあの時の男だった。
顔なんてはっきり見ていない。覚えちゃいない。
ただあの時の雰囲気……。感覚……。
白く見えるその、視界に入った彼に焦点を合わせ、馬鹿な女の話を遮り、彼の背中へ駆け寄ろうとした時……。
携帯が鳴った。
彼を視界から逃さないまま出たその着信。
─エリカさん!パクられたよあいつら……。
金を預けたあの日依頼、私に代わって何かと仕切り出した彼女は、無断で人を増やし、いいように金を集めていた。
『こないだ入れた奴が下手打ってさ、絶対しゃべると思うんだ。』
─あんたはどこにいんの……?
すでに視界からは彼の姿は消えてしまっていた。
『あたし、金持って飛ぶわ。エリカさんが一番ヤバいよ。“一応”あたしらのリーダーって事になってるし。』
信じていない者の、当たり前の言動……。
『今更金の事をとやかく言わないよね。エリカさんも飛んだ方がいいよ。じゃね……。』
プッ…プープープー……
──蜘蛛の糸が、ほどけた……。
その時、そう感じた……。
─彼に救われた時の罪を償おう……。
あんなに晴れた気持ちになれるんだから。
街の営みが優しく感じる、その時間がもっと欲しい。
私が彼になれば、明け方の不安も少しはマシになるかも知れない。
私は隣で顔をひきつらせている女に言った。
─あんたらもう大人しくしなよ。私が出て終りにするから。ピンクスパイダーは解散しよう。
もう糸は広げちゃ駄目だよ。
怯える彼女は首を縦に振るだけだった。
二十歳を前にして、一人の男に救われ、感じた安堵。
同じ安堵を夕日が見せてくれる中、私は自ら出頭する事を決めた。
親は別段何とも思わないだろう。
寧ろ胸を撫で下ろすに違いない。
─年少から出たら風景も違って見えるかな……優しいままの風景を素直に見れるかな……。
少なくとも、朝の不安は解消されるかもわからない。
目の前のコンビニの看板が、いつもの夕日に照らされ、オレンジ色に光っていた。
もしかしたら、彼は何気なく“人間らしさ”を教えてくれた小さな蜘蛛。
荒む私に一本の糸を垂らしてくれたのかも知れない。
私はそその糸を掴む……。
─あの安堵の中に包まれたら行こう。決意表明に募集でもしようかな……。
胸の中で冗談めかしながら、コンビニのドアを開いた……。
第二部 桃色の蜘蛛、只一つの罪【完】
創作の世界の物語は、幾重にも人間関係が折り重なる。
現実はそうは行かない。
交差した時間帯は流れ過ぎ去り、後に意味を教えてはくれない。
知らぬまま、また自らの人生を歩まなければならない。
例えその交差がどれ程の意味を持っていたとしても、都合よくドラマにならない。
それが人の何気ない交差である。




