第一部 小さな空と6つの罪
人生には、大きな関わりがありながらにして知り得ない事実がある。
誰も都合よく多くを語ってくれる事はない。
知らぬ間に罪を犯し、知らぬ間に徳を積む人生は誰も見ていてはくれない。
そこにただ存在する結果に
自分が納得出来ない時は、
何処かに理由を転換出来るなら
まだいい方だ。
―――
――
―
重そうな大きな扉が見える。
車で入ってきた時は、意識は別の所にあったので気付かなかったが、大きな扉のすぐ横に小さい勝手口のような扉があった。
出て行く時は、その小さな扉を開けられ、腰を屈めてくぐった。
久しぶりに見た外。
―まずは煙草か……。
自販機にコインを入れる手が少し震えるのを感じる。
初めての買い物は煙草。
しかしすぐにライターがない事に気付き、近くにあった雑貨店で300円もするライターと、帽子を買った。
やはり少し震える手で煙草に火を付け、大きく一息ついて上を向いて吐き出した煙は……。
視界いっぱいに広がる空に、自由に散っていった。
拘置所の空気は息苦しい……。
目に映る全ての光景はフィルムがかかっているように見え、俺にはブルーグレーに見えていた。
刑務所と同じ敷地内にありはするが、受刑者ではない。
―被告人―─。
それともう一つ……番号が此処での呼び名だ。
朝一の点呼では必ずこの番号を呼ばれる。
49番……くしくも俺に割り当てられた番号は生年月日という偶然。
そんな嬉しくもない偶然を、誰かに話すでもなくただ認識する。
受刑者と被告人との違いは、有罪で刑罰が確定した者と、裁判中の者との違い。
俺は5つの罪を犯してここに入った。
数ヶ月前──。
深夜に寝付けずに、夜の風にあたりに外に出た。
深夜のドライブは心地よく体の熱を冷ましてくれる。
曇りない空にぽっかり浮かぶ月がやけに綺麗に見えたので、人通りの少ない細い道路の窪みに車を停めた。
ぼんやりと煙草をくゆらせながら、月を見て当たる夜風は3月にしては程良く感じた。
そんな夜風に乗って聞こえる声がある。
―離して下さい……。
俺の住む街は、基本的に治安があまり良くはない。
揉め事を目にするのは珍しくないが、声のする方を見ると……。
若い女が酔っ払いに腕を掴まれている。
思えば……。
この日の深夜の外出が、一つ目の『罪』だったのかも知れない。
人通りの少ない道路での揉め事に、放っておくのも何だと……。
俺は車から降りたのだ。
相手は酔っ払い。
女は高校生か…何れにしても二十歳にも満たない年齢だろう。
女に興味はない。
手を振りほどく程度でいいだろうと安易に考えたのが、二つ目の『罪』だ。
酔っ払った青年は若かったが、簡単にその手を払う事が出来た。
―もう行っていいよ。そこの交番に声だけかけといて。
女を逃がそうとそう言うと、返事もせずに走り去ってしまった。
人は信用するか、無関心を装うのかは判断に苦しむ所だが、簡単に女を解放したのは三つ目の『罪』。
戻ってくることはないと悟ったが、とくに気に留める程ではない。
(まぁいいか……。)
酔っ払いの相手も面倒なので、その場を離れようとしたとき、ナイフの光が目に入った。
学生時代の喧嘩と言えば……。
動機も結果も極めて単純なものだった。
肩がぶつかった──。
目が合った──。
学校が違うだけで喧嘩になり、勝った負けたは然程複雑ではない。
納得がいけばそれで終わり……。
納得がいかなければ、何度も繰り返す。
ナイフや木刀やその他にも道具はあるにはあったが、何と言うか……動機が違う。
時代が違うのかも知れないが、喧嘩の暗黙の思い違いを気付けなかった事が、その後思い知る四つ目の『罪』だ。
そして俺は、無意識に手を出していた。
どれ程殴ったかは覚えていないが、相手がうずくまっている姿も忘れそうになったある日、招かざる客が俺のマンションのベルを鳴らした。
刑事が二人──。
任意同行で連れて行かれた警察署で、刑事の口からその時の情景を思い出さされる。
少し違う情景を……。
簡単なやりとりが終わればすぐに帰宅出来るという予想は外れ、逮捕状が手配された。
傷害容疑。
酔っ払い青年の被害届けを受け、任意と言う名の強制同行から数時間後、48時間の拘留が決定した。
本物の刑事に付けられる、本物の手錠は思っていたより重く、冷たい……。
たかが喧嘩と甘く見ていたが、刑事事件になるとは思わなかった。
その安易さが、五つ目の『罪』だ。
この五つの『罪』は、48時間の拘留期限を越え、裁判所に対して更に10日間の延長拘留の手続きにまで及んだ。
理由は二つ。
酔っ払い青年の供述が事実と根本的に違った事。
その違いを立証出来る証拠を俺は持たず、相手は『怪我』という動かぬ証拠を体に持ち合わせていた事。
車のナンバーを見る余裕があったのは予想外だったが、怪我以外の事実が跡形もなく消去されていた。
無論俺は訴える……。
─違うんだ……。
と。
薄着で出掛けた任意同行のまま入れられた留置場は寒く、汚い毛布にくるまりながら、五つの罪を考える。
―何故今此処に居るのだろうか……。
取り調べで刑事に言われた一言。
―今年の桜は見逃したな。
証拠という物は隠せば発見されるが、事実を立証するのは難しい。
拘留中は、辛うじて認められる『人権』のお陰で、刑事による取り調べ中と、1日に2度の運動時間に煙草を4本吸える。
四方を壁で囲まれた三畳程のコンクリートの運動場。
煙草の煙を吐き出しながら、見上げた空はコンクリートが高くそびえ、穴から見上げる小さな四角形。
手の平を掲げるとすっぽりと隠れる青い空はやけに小さく、煙突の中にでも居るようだ。
ここから逃れる可能性……。
その出口の小ささをも感じさせる小さな空は、自分の小ささをも実感させる。
―届くのだろうか?あの小さな空に……。
空の小ささを実感させたのは、意外にも弁護士の言葉だった。
―貴方の言う、貴方の事実を証明出来るものは正直ありません。
ただ貴方が怪我をさせたという事実は動きません。
確かにそうだ。
それが事実であり『罪』……。
―幸い貴方は、初犯の扱いです。
後者の事実を認めても、まず間違いなく執行猶予が付きます。
このまま行くと、恐らく裁判での長期のやりとりになります。
裁判で長引いてしまうよりは、早く出れると思いますよ。
映画で見たな。
自分はやってないと言えるのだろうか?
幸い……?
これは災いではなく、幸いなのだ。
俺の犯した罪。
それは傷害?多分違うのだろう。
やってない……何を?
俺の罪はそこに行き着く『五つの罪』だ。
気付けば鍵を持った留置監が廊下を歩く音が聞こえると、煙草の時間に喜び、散歩前の犬のように尻尾を振っている自分。
嫌気がさすが、これが俺だ。
さらに延長された二十日間の拘留期間を終え、
俺は『罪』を認めた──。
大方、用意されてあったような調書に首を縦に振り、二十日の間に何度か検察とのやり取りをした後に、書類送検される。
調書に書かれた罪と、俺の思う罪とは違いがあれど、法の元で裁かれる。
何しろ罪を犯したようだから……。
第一回目の裁判の日付が確定し、
被疑者から被告人へ。
疑わしいから調べる……のではなく、調べた結果罪を問われるのだ。
―煙草は必要ないから寄付してくれるか?
留置看その問いに、首を横に振る者等いるんだろうか?
そして俺は、拘置所に移送された。
大小、二つの門を合わせ持った入口を過ぎると、そこはもう『塀の中』。
素っ裸にされて着替えた服は、受刑者のそれと変わらない。
拘置所での初めての夜、空気のよどみが気になり、空けたままにしていた窓からは大量の虫が部屋へ入り込み、眠る事が出来ないでいた。
深夜に聞こえる、何処かの房からの叫び声……。
耐えかねる何かがあるのだろう見えない誰かは、引き摺られながら何処かに連れて行かれる。
こんな夜を過ごす事も罰なのだろうか……。
留置場のトイレは大きな窓が付いていた。
いつでもそこからは中も外も見える構造だ。
拘置所のトイレは部屋にただ備え付けられているだけだ。
壁の代わりに板が立てかけてあり、半身が隠されている。
これも罰だ。
煙草を吸えないのも罰。
何の罰……?
─五つもの罪を犯したじゃないか。
自分の甘さと、時間潰しに思考を費やし、裁判を終えた時には季節は夏に変わっていた。
実刑判決
執行猶予付き──
こうして、俺の五つの罪が裁かれた。
くしくも弁護士が言った通りの結果……。
塀の外には何もなかったかのように、蒸し暑い夏と大きな空が広がる。
間違いを犯したのは何処からなんだろうか……等と一瞬考えたが、取り戻した空を仰ぎ、考える事を止めた。
立ち寄ったショップの店員は、紙袋を持ちながらライターと帽子を買って行った俺に、いったい何を感じたのだろうか。
僅かに残った小銭で乗り継ぐ電車の中、そんな事を考えたりもしたが、多分大勢見た中の『また一人』だったんだろう。
桜を見逃すどころか、誕生日すら通りすぎてしまった。
そして、
久し振りに降り立った地元の駅で、思わぬ人に出会う。
出会いというにはあまりにも悪戯が過ぎ、もはや出会いではなくただ単に見かけたという方がいい。
あの時に助けた女……。
ふと、声をかけようと前に出した足を停めた。
一瞬目があったがこちらには気付かない。
(今更何を……。)
犯した罪は裁かれた。
求める物なんて何もないじゃないか……。
そう思い歩みを進め、女の横を通り過ぎた。
前方を見ている俺の耳に、
―うざかったから彼氏にボコってもらったんだ。
そんな言葉が聞こえたが、俺には関係ない日常の会話だ。
そんな会話を気にするより、音沙汰もなく待たせている彼女に会いたい……。
数日後……。
テレビで流れた一つのニュース。
俺の知らぬ所で、俺の知らぬ間に流されたその放送を俺は見てはいない。
俺の六つ目の罪を……。
『昨日、未成年の窃盗グループの主犯格が逮捕されました。
主に年輩者や酔った人物を狙い、被害件数が相次いでおり、たまたま居合わせた警官がグループの一人を現行犯逮捕しました。
調べでは他にグループ売春等もわかっており、逮捕した少女から主犯格が判明し、今後余罪についても調べる方針で……。』
多分、あの日の彼女は失敗していたのだろう……。
あの日のあの時が罪──。
罪を犯し、そして見上げた小さな空。
答えは……。
そこにただ存在する結果に
自分が納得出来ない時は
何処かに理由を転換出来るなら
まだいい方だ
それすら見つからずに
穴に堕ちて行く時には
関わる過去が
罪になってしまう
結果が全ての世の中と言うなら
指先を動かす事も罪になる
そんな可能性だってあるんじゃあないか
其れを脅え
空を仰いで見ても
見える空の色さえ
後の罪にならないように
祈る自分は
やっぱり人間臭い
全ての通り過ぎた過去が
これからの罪になりませんように…
第一部 小さな空と6つの罪【完】




