死にたいというブスには生きる価値がない
俺はよく、自殺の事について書く。
俺自身それをもうすでに、現象として捉えていて、他に書く事がないからだ。
いわゆる一つのネタとして書いているわけだ。
自分自身自殺未遂をし、臨死体験だかよくわからないが、そういうものをしたので、新しい情報になりうる、と思って書いているだけだ。
本当に感傷に浸っているような事は書けない。
書くとあまりに生々しくなり本当に苦しくなるからだ。
例えば母親が死んだ後、俺はそれを何も言わなかったし、書かなかった。
母親の死でセンズリをかくようなみじめな気分になると思ったからだ。
色々あり、俺のその考えはキチガイだという事になった。
なった、のだ。
俺は知らない。
今はもう、感傷がない。
遠い昔の事としか感じられない。
だから、話のネタとして出しても、何の抵抗もない。
心の底からどうでもよく、一つの情報にしか過ぎない。
え、何故こういう話を書いているのかって?
ブスが死にたいというのをネットでよく見るからだ。
俺はそういうのを見るたび、死ねよ、と思う。
実際にそう返信した事もある。
首吊りはあまり苦しくない、ODは本当に苦しいから、やめなさい、という内容だった。
首吊りはクソと小便が垂れ流しになり、汚く死ぬから、嫌だと返信された。
死体に綺麗も汚いもないだろ。
死んだ後は肉になるだけだ。
そもそもどう死んでもクソと小便は垂れ流しになる。
問題は、死ぬまでの間苦しいかどうか、だけだと思う。
死ぬのにそんなクソどうでも良い事気にしてどうするの、と返信した。
すると、その人は笑った。
結局シリアスでないのだ。
本当に死にたい時というのは、何にも言わない。
そんな事クソどうでもよくなる。
ドラッグをやる前と一緒で、人が嫌いで、自分が生きてる世界が嫌で、面倒くさくて、仕方なくなるのだ。
そんな時に死にたいなんて人に打ち明けようとは思わない。
そもそも人が嫌いだから死んで、自分の意識を打ち切ろうと思うのだから。
憂鬱な気分というものがある。
それは、死に向かう時の気分と、少し似ている。
そういう時は俺も死にたいと言ったり、書いてしまう事がある。
その憂鬱な感情というのは、大抵の場合、結局、寂しい、という感情なのだ。
俺が死にたい、と言っても書いても、同居人は俺以上のジャンキーで、クソみたいにラリった経験から、馬鹿じゃねえのと俺を笑うし、ツイッターでは、漂白剤を飲んで胃洗浄を受けた奴から、とっとと死ねよ、と煽られる。
寂しいから、という理由で、希死念慮だか、とかなんちゃらかんちゃら、そういうものを言う奴。(こういう曖昧な言葉は嫌いだ、余計美化されて、V系とか、そういう肥溜め以下の音楽ジャンルに引用されて、クソ以下の人間がそれに惹かれてそういう事を言う。)
お前には、何の価値もない。
そもそも全ての人間は何の価値もない。
一部そうでない人間も居るが、それは結局人間を起点として見た時の話だ。
金持ちの息子、見た目が美しい、話が面白い。
そういうものまで否定すると、仏教的な話になるので、やめよう。
そういう、社会的に役にたつもの、人がバンドとして暮らしていた時代からの、遺伝子に刻まれた、人の役にたつという喜びを実現できる人達だけだ。
具体的に数を上げると、二十人居て一人居ればラッキー、ぐらいだろう。(銀のエンゼルみたいだな)
数については適当だ。
それぐらい低い確率だと言う事だ。
ここまでぐだぐだと何を書いているのかというと、その十九人が根本的に誤解している事がある。
現代はソフィスケイトされているから、誰も、言葉にしては言わない。
大人になってからうっすら、社会から、お前は要らないと言われ、知る事になる。
はっきり言うと、生きる価値がないという事だ。
生きているだけでありがとうなんてクソみたいな歌詞が流行るようなご時世だから、あながち間違っているともいえないと思う。
そういう人間は本来なら、それこそ、死ぬほど努力しないといけない。
死ぬほど努力して、生まれついて能力を持っている人間を超えるかどうかしなければならない。(あ、努力という言葉、微妙だな。能力を高めなければならない、みたいな意味だと思って欲しい。)
しかし現代、というか、人間社会は、恐ろしい解決方法を思いついた。
自意識を愛するという事だ。
自意識を信じる事と、愛する事は、違う。(また仏教的な話になってきた)
信じる、は道を進む事だ。
愛する、はそこで止まってしまう事だ。
あ、また曖昧にしようとしてる。
うまい言葉を考えよう。
自殺をしなければならない、という状況になったとする。
勘弁してくれよ、何で俺が自殺なんかしなきゃいけないんだよ、死ねば暗い所に行っちまうんだぞ、と踏みとどまるのが、信じる事だ。
私ぐらいの特別な存在が自殺するんだから死後の世界は明るいものに違いない、と思うのが、愛する事だ。
なんだかうまい例えじゃないな。
無理に対立させようとしちゃってるよ。
悪い癖だな。
ともかく、自意識を愛する、というのは、奇異だし、気持ち悪いし、死んでしまうという事だ。
死ぬのは、あまり気持ちの良いものではない。
死体はカチコチだし、冷たい。
綺麗な死体なんて存在しない。
よく、ハードボイルド映画なんかで、殺す価値もない、と主人公の妻をレイプして殺した悪漢を殺そうとした主人公を相棒役が止め、相棒役が殺すか、なんらかの自然現象的なもので、悪漢が自然に死んだりするシーンがある。
ああいうのは最低だ。
殺してしまった方がいいものは、殺してしまった方がいい。
殺す価値のある人間だからだ。
許せないものは、殺した方がいい。
それは当然、自分の手から発せられたものの方がいい。
それを他人の手に委ねるのは悔いが残るし、逃げだ。
俺があげているのは、本当の意味で殺す価値もない人間だ。
生きる価値もない。
ただそういう人間は二十人居れば十九人居る。
だから、お互いにそんな事ないよね、と言いあう。
お互いに寂しいから、寄り添う。
俺は自分が二十人の中の一人だとは思わないが、十九人の中でそう言い合った後、ふと自分が死ぬ価値のある人間だと思い、自殺未遂をし、死ぬ価値もない人間だと気づいた。
死ぬ価値のある人間というのは、結局、生きる価値のある人間でもある。
それに気づかないままなら、それこそ死んだ方がマシだ。
何が言いたかったというと、俺はV系の退廃的(こう書くと俺は好きじゃないけど、カミュみたいなフランス文学とかに悪いからやめよう、退廃的、もどきだ。)な、クソみたいな音楽性とそのファンが反吐が出るほど嫌いだし、スマートフォンで自撮りをする同じ顔をした白粉を塗った猿(本当の意味でだぞ、大体そういう事をしたがる奴は皆猿に顔が似ている)が嫌いだ。




