第八十九話 零の舞
五年前になるか…。今の俺と全く異なる俺だった頃だ。こんな身体でなく、他人との繋がりもあった。妻と幼い娘がいて、仕事も充実し、人生で最も幸せだった。
それは突然だった。
仕事を終え、家族の待つ家へと向かっている時だった。少し冷えていて、帰路を急いでいた。
ある角の街灯が故障していたのか、月明かりが届かずうっすらと先が見える程度だった。向こうから近づく人もいるということしかわからなかった。
“ドスッ”
すれ違うまさにその瞬間だった。腹に何か当たった感覚がした。
気にも止めていなかった通行人が随分近くにいた。ぶつかってしまったのか。道をあけようと左にどこうとして、やっと違和感を感じた。…身体が重い?瞬間、足に力がはいらなくなった。立っていられず、膝で立つ。ここになってやっと痛みが身体中を廻った。腹部には柄の部分のみが奇妙に出ている。周りからは真っ赤な染みが広がっていく…。ついさっきまで近くにいた人影はもう既にいなくなっていた。周りには他に誰もいない。死ぬのか?俺は?大切な家族を残して?
ほんの少し前まで当たり前だった光景が目の前に広がっていく。…あれが走馬灯というものなんだろう。意識が薄れてくるとそれさえも見えなくなっていく。
ただ死にたくないと、そう思うだけで精一杯だった。
そして、全てが闇になった。
どれだけの時間がたったのかわからない。光を…感じたんだ。眩しいくらいの光を。
目を開けた。ずいぶん眠ってたことになるんだろう。簡単には瞼は開かなかった。光源は真上にあった。手術室にあるような巨大なものだ。左右を見ると、レントゲン写真やメスなんかの道具が見えた。どうやらここは手術室のようだ。不思議と頭はすっきりとしていた。ただ、違和感にはまだ気づけなかった。
そうだ…俺は刺されたんだ。だから手術を受けてここにいるのか…。そう考えれば安心できた。俺はまだ帰れると。
ゆっくりと身体を起こす。力が入らず、何度か崩れたものの、少しずつ感覚が戻ってきてようやく起き上がれた。ここでふと思った。…誰もいないのか?患者一人手術室に置き去りになんて…。奇妙に思ったものの、考えていてもしかたがない。誰かに知らせるしかないか。
足を横に滑らせ、台から下りた。さっきまででだいぶ感覚が戻ってきたのか、ふらっとはしたものの、倒れずにはすんだ。壁につかまりながら、扉へと近づいた。開くかどうかなんてわからないが、扉を開こうと手を出した。この時、目が覚めて初めて自分の腕を見た。
腕にはイフリートの腕が着けられていた。金色の腕。名は内側に彫られていた。見た瞬間はかなり驚いたものの、自分の腕に着けられているだけだと分かると、少しほっとした。
なぜこんなものが…。自分の腕に何かあったのかと不安になり、それを外した。そもそもこんなものを着けているのに、なぜ気付かなかったのか、と疑問に思ったが、自分自身の腕を見た瞬間にそんな疑問はどこかへ消えた。
異質なそれを見て現実だとは到底思えなかった。皮膚が見えないほど黒い体毛に覆われ、爪は以前の二倍は長く、鋭くなっていた。
何かの間違いだ、そう思い、もう片手で改めて腕を触る。触り、触られる感覚はしっかりとある。それどころか、もう片手さえも化け物のようだった。かなり動揺し、出ることよりも、自らの姿を確かめることの方が先決だった。鏡を探そうと周りを見ようとした。…俺はまさに固まった。頭の中さえ働かない。全身を写し出せるだけのひび割れた鏡には、この世のものとは思えないような生き物がいた。全身真っ黒な化け物。
「ウォォォォォン!!」
受け入れられるはずもなく、拒絶するように叫んだ。だか、その声はさらに自分が人とは違うものであるという現実をしめすものでしかなかった。