第七十話 -AS- 天と地
本番まで後少し。…この時間が一番苦手。始まったら後は楽しむだけだから、どこに置き忘れたんだろうって位、緊張は消えてしまうんだけど…。今はうまくいくかな、なんて心配しかできない位テンパってる。
胸に手をあててみる。判りやすいくらいに脈が早くなってる。
腕をあげ、降ろす。大げさなくらいに深呼吸をした。これくらいしないと意味がないように思えて。
それでも脈は早いまま。むしろ、さっきより早くなった気がする…。いつもなら少しは効果あるのに…。
いつもとは違う。今日は特別だからかな?
もう一度深呼吸しようとしたとき、ドアをノックする音が聞こえた。
ハックかな?そろそろ入る時間だし…。
「はい、どうぞ。」
ちょっと声が震えてる気がした。しっかりしなさい、私!
『失礼します。ステージに入る時間がきました。』
…あれ?ハックじゃない。
「今日はハックじゃないの?」
『はい。今回は隊長は監視室で会場全体を見張るそうです。無線を使わないから、監視室の人員を増やすそうで…。今回だけ私です。』
あー…私のわがままを通してくれたからだね…。
「そうなんですか。それじゃあ、よろしくお願いしますね。」
そう言って、手を出した。近づいて来てる気配がしたから。ちょうどダンスをするときのように、手の甲を上にして差し出した。
その人は下からゆっくりと手を包もうとしてくれた。
だけど…。
触れた途端、ぞっとするような、何か冷たい感覚が体中に広がった。
途端に手を離し、その人の気配から離れた。
「あなた…誰?」
少なくともハックの下にいる人達の中で、こんな人はいなかった。触っただけなのに、まるで、心臓に銃を向けられたみたいな…。
『…誰、か…。』
声がさっきよりも深くなった。
『自分から呼んだのに、判らないとは…。』
呼んだ?こんな恐い人を?一体なんの…、と考えてはっとした。
「あ、あなたが…。」
―ケルベロス。
―
まさか、手に触れただけで気付かれるとは、思いもしなかった。鋭い女だ。
『で、でもあの脅迫状を作ったのはハックで…。』
かなり動揺しているな…。当然か…。
「それとは関係ない。こちらの仕事で来ただけだ。」
『じゃあ、私を…。』
「殺す。」
避けようとしていた言葉を冷たく言い放つ。死刑判決。…正直なところ、あまり言いたくない。だから、今まではターゲットと話す前に仕留めてきた。だが、今回はそういう訳にもいかない。
「だが、お前が死ぬのは今じゃない。」
彼女は塞ぎこんでいた顔に少し疑問の表情を表しこちらを見上げた。
『それはどう言う―』
「お前にはライブを最後までしてもらう。その後でみなの目の前で殺す。」
あまりにも予想外過ぎて混乱しているのか、表情がさっきから固まったままだ。無理もないか…。
それでも、俺は話を進めた。
「もちろんだが、おかしな真似はするな。しなければ、最後の曲の後に別れを言う時間をやろう。あまり長くはやれないがな。」
彼女は再びうつ向いた。少しして口を開いた。
『わかりました。』
表情はさっきとはまるで違う。覚悟を決めた顔だ。
「…いい顔だ。」
改めて彼女の手をとり、部屋を出た。