第一三七話 不穏の音
景色が落ち着くと、目の前には灰色の顔があった。これも狼なのか?今の状況を他人事のように思考に入ろうとしていた俺を、肩に走った痛みで現実に引き戻された。目の前の顔は白い牙を見せながら、迫ってきた。
「くそっ。」
床に倒れているため、手足が動かしにくく、俺の上に乗っているものを、あまり強く殴れなかった。それでも、さっきのやつよりも小柄だからか、何とか噛み付かれる前に押し飛ばせた。
すぐに立ち上がり、身構える。俺の上に乗っていたものは左手の通路に立っていた。案の定、ピンピンしていたが、様子を見るように、じっとこちらを睨みつけている。全体を見て顔を見たときに感じた違和感が分かった。
青みがかった灰色と白の毛を持つそれは、もう一匹と対照的に細い。顔は一言で言えば鋭い。前後に長く引っ張ったと言えばいいのか、身体もその言葉が最適だ。脚も胴体と比べて短いからか、ダックスフントを連想したがコイツの方が醜悪だ。何しろ目さえも切れ長になり、嫌味な笑みを浮かべているように見える。
“ヴヴヴッ”
唸り声。檻へ叩き付けたもう一体も威嚇を再開したようだ。あまり効いていなかったようで、傷付いた様子は全くない。頭に直撃したはずなのに、こうも平然としていられると、さすがに焦るな。
何よりも、もう一体増えた事がかなり重大だった。化け物が二体だからただでは済みそうにない、という事ではない。ニ体では済まないのではないか。部屋の広さ。檻の数。大半が空だとしても、ニ体でしかいないとは考えにくい。こういう状況に役立ちそうな鼻や耳もあまり意味がない。今まで多くの実験体がいたのか、獣の臭いが満ちすぎて判断材料にならない。また、狩人であるものが不用意に音を発てたりはしない。対して、奴らは男の強い血の臭いに誘われてくる。こちらの位置は完全に把握されている。他にいるとすれば時間をかければ集まってくる。
『最後…の…警こ…くだ。』
搾り出すような微かな声。男は焦点の合っていないんだろう、ただ床の方に目をやったままだ。限界か。
『離れ…ろ。』
離れろ?こんな状況で離れろとは変ではないか?考えすぎか?
“カチッ”
唐突に聞こえた微かな機械音でやっと分かった。この男の言いたい事が。
すぐに駆け出した。ここにいては駄目だ。もうこの男も連れていけない。早くここから出なければ。駆け出したのは俊敏な化け物が構える左の通路だ。あの巨体にぶつかり、乗り越えるという危険より、素早い動きで傷を負っても突っ切る方が、成功するだろう。安直な考えかもしれないが、ここから離れればそれでよかった。
切れ目の瞳が俺の動きに合わせ動き、態勢を下げ、飛び掛かる構えるをとる。脚を狙っている。まともな根拠のない、ほとんど勘だ。しいて言えば態勢が低すぎる…ように感じたから。とはいえ、こいつの飛び掛かる直前の姿勢なんて、知らないのだから、当てになどならない。
狙いが当たろうが外れようが、どちらにしろ脚に傷は負いたくはない。脚を第一に守ればそれでいい。
動き出したそれは地を這うような低さで突っ込んできた。予想が当たったが、それ以上に低かった上に、速かった。床に下ろそうとした脚にタイミングを合わせて迫ってくる。なんとか避けようと、無理矢理半歩分後ろに脚をつけた。走るスピードの中で無理に歩幅を変えるなんて、平然としていられる訳がない。案の定態勢を崩してしまった。前のめりに倒れていったが、無理に下げたのが左足だったからか、大きく崩れる前に左手の壁にぶつかった。壁に手を当て、押し返すようにして態勢を立て直す。前にはもう俊敏なものの姿はなかった。上手くかわせたようだ。どこにいるか確認している暇はない。再び走りだそうと脚をつけた。
“ブヴォン”
真後ろで爆発音がした。予感は的中した。耳にしたくはなかった、存在を消す音。