第一三六話 化け物対化け物
「…狼?」
狼がここにいる事が不思議だった訳ではない。男の安否を考えてばかりいたが、それでも自分が今どういう場所にいるかぐらいはわかっている。遺伝子操作、生物対象で行っていると言っていたのだから、狼がいたところで何もおかしくはない。疑問に思ったのはもっと別のところだ。
“そこで俺を睨みつけているのは本当に狼なんだろうか?”
足りない言葉を補うなら、これが適切だろう。明らかに大きさが異常だった。狼なんて、今まで数える位しか見たことはないが、−もちろん動物の、だ−そのどれよりも巨大で二回りは大きい。いや、もっとか。虎と殆ど差がないだろうか。頭部も比較的大きいから、全体的に拡大したようなところだろうが、筋肉の付き方や骨格も異常なんだろう。胴体、両前脚、ここから見える部位は不自然な程膨れあがっている。
『クハハッ。…自分の作品にやられるとはな。皮肉も、…いいとこだ。』
気絶でもしていたらしく、やっと声を出した。ただ、脇腹の出血は止まる訳でもなく、片手で押さえ付けているようだが、全く意味を成せていない。
「死なないだろうな。」
『どうかねぇ。痛みを感じない…わ、左半身動かんわ。駄目だな。』
片手のみでしか止血をしていないのを見ると事実のようだ。最悪な事態だ。
『私を…捨てていけ。』
「出来ない。」
今更何を言うかと思えば。化け物一匹位殺せる。
『…何でもいいが、これ、…を持ってろ。』
途切れ途切れに声を出しながら、血まみれの手で何かさし出した。目の前にいる化け物から目を反らさないように受け取る。ディスクだ。
『私の成果、だ。出口は、わか、るんだろ?…さっさと、行け。』
突然、けたたましい音が鳴り響いた。
“実験体ノ脱走ヲ確認。関係者ハタダチニ脱出シテクダサイ。五分後ニ駆除ヲ開始シマス。”
成る程。悠長に睨み合っている場合じゃないのか。五分、時間がない。ならさっさと行動することにしよう。
すぐに化け物から目を反らし、奴を誘った。急いでいるとはいえ、無謀な事をする訳にはいかない。臨戦態勢にある敵に突っ込むよりも、飛び掛かる敵を迎え撃つ方が適している、と判断した。目を反らしたとはいえ、この距離まで近づいているのだ。音だけで相手の状況が十分わかる。
“ギィッ”
爪で床を削る音だろう。動き出したか。もう一度、さらにもう一度似た音が鳴る。さらにもう一度音が鳴るが、今までに比べて明らかに長い。飛び掛かかろうと、踏み込んでいる。チャンスだ。飛んでいる間は動きを変えられない。
振り向きながら、目で奴の正確な位置と高さを見積もる。位置は音で測ったとおり、高さは俺の腰よりも少し上を目掛けて跳んだようだ。一瞬の間に考えた、というよりは感じたのと同時に身体が動いた。振り返る動きに合わせて脚を浮かす。身体を捻り、脚に力を入れ、頭部目掛けてたたき付けた。
頭部側面。狙い通りだ。規格外のサイズだからだろうが、随分重く感じたが、なんとか振りきった。左手にある檻に巨大な身体が方向を変えていく。
“タッ”
仕留めたか確認する余裕もなく、物音が聞こえた。左の通路の方だ。今俺と男のいる場所は部屋の隅であり、少し前−調度さっきの化け物を叩きつけた所まで、檻が続いているが、男の倒れている左は他の列への通路になっている。音がしたのはそこからだ。幸い、音はまだ遠く、何とか対処できる距離だ。仕留めきれたか、と不安が残るが、さらに目を通路へと向ける。
突如、視界が急激に動き、背中に強い衝撃を感じた。