第一三五話 実験体
明らかに不自然な動きだった。真っ直ぐ立っていた人間が当然消えた。もちろんそんな事がある訳もなく、単純に見えなくなっただけなのだが、その動きが異様だったんだ。
何の動作もなく人が真横に動けるものか。
ただ事ではない。それだけはわかった。突然の事で直ぐには動けなかったんだが、姿を消した隣室へ急いだ。急いだ、と言っても扉一つを越えるだけなんだが、そう表現するのが適切な程焦っていた。
部屋に入ってすぐ感じた。血の臭い。感じたとともに左を向いた。さっきの男が壁にもたれかかるように倒れていた。様子がおかしい。俺が見えるはずなのになんの反応も返さない。血の臭いといい、まさか…。
何よりも不思議だったのは倒れている位置だ。この部屋は話しからしても実験体を捕らえておく保管庫なんだろう。地図に記されていた通りなら、長方形状のかなりの広さがある。この扉はその部屋の四隅のうちの一つに位置している。男は長方形の長辺を移動した位置にいるのだ。距離は百メートルを越えている。
姿を見失い、あの男を再び確認するまでにせいぜい十数秒。人があの位置に移動するのは不可能ではない。ただ、消えた時の様子といい、今の状況からだと、明らかに第三者によるものに違いなかった。そう、考えるべきだった。
まさか、死んでるのか。頭に浮かんだ最初の考えだ。いや、気を失っているだけかもしれない。折角光明が見えはじめたのに…。とにかく近づかなければ。それ以外頭になかった。入ってすぐ感じたもう一つの臭いの事も忘れて。
完全に動揺していたため、なんの注意も払わず、歩を進めていた。正確には駆け寄っていた。何があるかど考えずに音を発てて走っていた。近づき、様子が徐々にはっきりと認識できるようになるにつれ、脚を緩め、遅くなっていった。
後十数メートル程まできた時だ。この辺りまでくると、男の様子がある程度把握できた。白衣の右脇腹辺りが紅く染まっていた。傷の大きさははっきりとはわからなかったが、紅く染まっている部分を見ると、深いようだ。
「生きて…るのか?」
独り言なのか、血まみれで倒れている男へ投げかけたのか自分でもわからない。それでも、返事が無いことにさらに焦りを感じ、再び駆け出そうとした。音がした。金属が削られる時のあの甲高い音だ。それも真横から。部屋の端を歩いてきたので、自分から見て左はまだ比較的綺麗な壁で、右は対照的に至る所が歪み、傷の入ったみすぼらしい檻が規則的に並んでいた。音がしたのは檻と檻の間、通路用に開けられたような空間からだった。反射的に目を向けると、視界の隅に白い塊が見えた。何故だかはわからないが、逃げろ、そう直感した。
直感とともに身体が動いた。前方へ−今だに動きのない男の横に、飛んだ。着地しながら態勢を変え、ついさっきまで自分のいた場所に目をやった。
口許を真っ赤に染めた白い獣がそこにいた。