第一一五話 謎の封筒
「今日はここまでだ。」
何色も色の混ざったパレットと筆を置き、立ち上がった。キャンバスに描き上げている人物の顔を見る。二百人近くもの人の顔を描いているからか、明らかに始めに描いたものよりも本人に近い形になる。…皮肉なもんだ。
顔は何も見なくても描ける。話したように何度も夢に出るのだ、嫌でも覚える。その顔は皆、俺を睨みつけているようにしか見えなかった。だから、俺が描いた絵はそんな顔しか残らない。
『歌姫さん…笑ってるみたい。』
隣で見ていた彼女はそう言う。改めてみても俺を睨みつけているようにしか見えない。それでいい。憎まれるのは俺なんだから。
見られたくないもの、まさにここの事だった。相棒も知っているだろうが、ここに入らせたことはなかった。彼女も入れるつもりなんて皆無だった。なのに、どうしてなのか、見つかることが分かっていたかのような態度をとっていた。拒むこともせず、むしろ受け入れている。自分の考えている事がわからない。ただ、彼女が隣にいて描いていた時がよく筆が動いた。
『ねぇ、狼さん…。』
キャンバスを乾燥棚にしまい、戻ってきた時、彼女は机の上に置いた色の染みたパレットを見ながら言った。
『また、描いてるところ見ててもいい?』
「…好きにしろ。」
自然と言葉が口から出た。本能で悟ったのかも知れない。俺達にはこんな時間が必要なんだと。それが例え短いものだとしても。
『うん。』
彼女は視線を変えずに静かに答えた。彼女は今何を感じているのだろうか。あの絵が笑っていただなんて…。
片付け終わり、部屋を出る。廊下の汚れ様を見て、掃除をしたい、と言い出した彼女を止め、上に上がるのは一苦労だった。確かに、ここは埃の絨毯とでも言えるほどだし、蜘蛛の巣のカーテンなんて表現も似合うかもしれないな。ここの酷さは認めよう。それでも、ここの家具は変えない。毛に付く埃が気になるとしても、ここは最初に見た様と変えない。変なこだわりだが、なんとか彼女を止めた。
『絶対掃除した方がいいのに…。』
膨れても駄目なものは駄目だ。結局、まだ諦め切れていないようだが、なんとか押し切った、そんな感じでしかなかった。勝手に入られるよりも、勝手に掃除されないかの方が心配になってきた。
「アトリエの中は綺麗にしてるんだから、構わないだろ。」
なんて言い訳に満足してくれる訳もなく、ふて腐れたまま、エレベータを待っている。参ったな。満足のいくような答えが浮かばない。
『仕方ない。狼さんの意外な趣味を見つけたんだし、許してあげよう。』
どうして上から人を見てるんだよ。それでも、これで掃除されなくて済むんだから、それだけでもいいとするか。
「何か…趣味はあるのか?」
当然の受け答え。ただ、彼女はずっとあの中にいたのだから、普通とは違う。訊くのを一瞬躊躇ったが、一度声にしたのだ、最後まで声にした。
『私の?…う〜ん。』
″チーン″
答えを返すよりも早く、エレベータが着いた。よく考えてみると変だ。俺がこの階に降りて着たのが最後のはず。なら、エレベータはずっとこの階にあるはずだ。トーイッシュが帰ってきたのか?そうだとしても一つ上の階にあるはずだ。俺達以外の人間がここに入ると警報が鳴る。なら、故障か?それはそれで問題だが…。
″ガサッ″
『ん?』
何の気無しに乗った彼女が止まった。何か踏んだようだ。封筒?なんでそんなものがここに?
「貸してくれ。」
彼女から受け取った封筒の中をあさる。中には、一枚のディスクと…。
「カードキー?」
青い一枚のカードキーが入っていた。文字は何も入っておらず、三角形に三本の線が斜めに入ったロゴが描かれている。俺はこれを知っている。
″チーン″
扉が開くのと同時に歩き出す。相棒に連絡を取ろう。俺が知らないなら相棒しかいない。似たようなことがなかった訳ではないしな。
『私…戻った方がいい?』
弱々しい声で彼女が言う。仕事関連の話だと分かったのだろう。昨日聞かれた時に怒鳴った訳だしな。ただ、もう既に一件聞かれているし、見られてもいるしな。聞かれたところで何ともない。
「好きにしろ。」
俺の後ろから、軽快な足音がついてきた。