リンゴジュースは赤
画用紙はいつまでも続かない。夢中になってぐりぐり書きなぐっていても、気が付けば色は紙を大きくはみ出してしまっている。床に引かれた線はなかなか落ちず、母親はそのことで随分長いことヒカルのことを叱ったのだった。
「つまりそういうこと」
にか、と情けない笑顔の向こうの、小さな膝小僧を見つめる。錆びた非常階段から垂れた小さな足は頼りなく揺れている。ふらふら、ふらふら。
「意味分かんない」
「僕だって分かんないけど、しょうがないじゃん」
ヒカルの笑顔がさらに薄っぺらくなる。
それ以上見たくなくて、私はサッとヒカルの横に座った。しゅうっと勢いをつけて手すりの間から足を出せば、風にスカートがふわあと舞う。
「ひゅー」
ヒカルが吹けない口笛を吹いた。影のような口笛を蹴り飛ばせば、そのまま風に飛んでいく。
「昔さあ、一緒に絵本作ったじゃん」
「…いつの話よ」
「すごい前」
「幼稚園の時じゃん」
「うん」
ざらざらとしたものは嫌いだ。ぼろい校舎も、非常階段の肌触りも、無理やり聞かされるヒカルの話も。
進路相談の紙も、青い空も、ブランコも、白い足も、全部嫌いだ。
「あれさ、動物が出てくる絵本だったじゃん?」
「ウサギとリスとハムスター?」
「姉ちゃんがさ」
伏せたヒカルの睫毛が陽に光った。
「ウサギはピンクに塗らないようにしようって言ったんだよね。あの時幼稚園じゃウサギっていったらピンクだったのにさ。実際の世界にはピンクウサギはいないからって」
「そーだっけ」
「そうじゃん」
「覚えてない」
「でさ、僕が間違えて途中で一匹だけ頭をピンクに塗っちゃってさ、」
ああそうだった。別に大したことじゃないのに一人で勝手に泣きそうになって、大変だった。
2つ下の弟はいつでも私のオニモツだった。
「で、姉ちゃんが言ったんだ、頭だけピンクのウサギにしようって」
「それも阿呆っぽいけどね」
呟きは、野球部の声の波に浚われてヒカルには聞こえなかったらしい。
「だから姉ちゃんは一人でも大丈夫」
明るい声こそ、浚われるべきだったのに。うう、と唸ってもヒカルは笑ったままだった。見たくない笑顔のままだった。
「ほら、早く」
隣でヒカルがせっつくのを見ないですむように、私は顔をそむけた。
「子供じゃないんだからさあ、早く言いなよ」
「ばかじゃないの」
「バカって言う方がバカだよ」
「ばかじゃないって言ったからいいのよ」
時間よ止まれ。流れる風が、音が、光が、憎い。
手すりを握った手が痛かった。爪がギリっといやな感触を拾う。憎くても時間は止まらないし、はみ出したクレヨンは戻らない。
くそう。この世の分かってることも、分からないことも全部くそだ。
「ヒカル、」
「うん、姉ちゃん」
腹を据えて真正面から見たヒカルは全然笑顔じゃなかった。びっくりするくらい笑顔じゃなかった。
笑顔のままが良かった。画用紙の中で、ピンクの頭のウサギは真っ赤なリンゴジュースを飲んで笑っている。そこには楽しいことだけがある。ぐるぐと円環しながら、思い出にならない、思い出ばかりがある。
でもダメだ。私は呪文を唱えなきゃいけない。
運動場で野球部の声が上がった。吹奏楽部のメロディが遠くながれた。
「バイバイ」
私は笑ってヒカルに言った。
「バイバイ、姉ちゃん」
ヒカルは泣いて消えた。ざらざらの錆びた手すりを握って私は唱えた。
「バイバイ、バイバイ、ヒカル」
それ以来、私はめっきり幽霊が見えなくなった。昨日まで見えてたものが見えなくなっても、電車は動くし食パンはまずい。私は可愛くない高校生のまま、可愛くない高校生の日々を送る。
リンゴジュースが赤だった絵本の中には戻れなくて、きっともっと歩いていった先で、私は非常階段にも戻れないことを知るのだろう。
ずっと先。春がきて春がきて春がきて春が終わって、もっと先の未来で。
ざらざらしたものは嫌いだ。そう叫んで辿りついた先には、きっとヒカルの笑顔があるんだろう。あるんだといいな。
twitter上でフォロワーさんから頂いた「昨日まで使えていた能力が使えなくなった少年or少女の話」のリクエストで書かせて頂きました。能力を失った、というよりは能力を失う話になってしまいましたが。
ちなみにウサギとリンゴジュ-スの色塗りの逸話は作者の実体験だったりします。