即決
ローヴァリースに来て、三日目の朝。
自室で身支度を整えながら、私は小さく溜息をついた。
この世界の服には、まだ慣れない。自分が袖を通すことに違和感を感じてしまう。
着終わってから、どこかおかしなところはないか、自分の体を見下ろして確かめる。この部屋には小さな鏡はあるが、全身が映るような鏡はない。背中などは手さぐりと勘で確かめるしかなかった。
鏡に映った私の顔は、召喚される前と何ら変わらぬ見慣れたものだ。地味で平凡な顔。この世界の言葉を理解するとか、『エキラ』と『クロス』への耐性をつけるとか、そんなことができるなら、容姿や性格もいじってほしかった。そう――『パステル・リンク・ファンタジア』の主人公みたいな、目がぱっちりとした可愛らしい顔にしてくれたり、優しくて誰にでも好かれる性格にしてくれたり。そんなオプションがついていたら、飛び上がるほど嬉しかったのに。
大好きだったアニメ、私の憧れ、『パステル・リンク・ファンタジア』。異世界に召喚されるなどという常識外のことが起こったのだ。あの物語のようにとんとん拍子に話が進んでいったっていいじゃないか。現実には有り得ない、なんて、今の状況じゃ通用しない言葉なんだから。
身支度を終えて部屋を出る。
一階では、イシュタールがすでに準備を整えて待っていた。
「おはようございます!」
朝から笑顔が眩しい。
よくよく考えれば、これだって美味しい状況なんだよな。麗しいお兄さんと二人きりで旅をする。夢見がちな女の子の憧れじゃないか。なぜかいまいちそんな気はしないけど。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「あ、はい。大丈夫です……」
「それはよかった。では、朝食にしましょうか」
子犬のように人懐っこい笑顔で、イシュタールはそう言った。
朝食の後、ヴィントを見てまわることになった。
「この世界の空気に触れてもらう、という意味でも、街の中を散策してみるのはいいことだと思うんです」
確かに。なんだかんだで人のいる街中をしっかり見たことはなかった。見たのは草原と宿屋、そしてイヴァルスの集落だけ。
「ここは割と小さい街ですが、最初ですし、ちょうどいいでしょう」
イシュタールに渡された地図に目を落とす。
なるほど、確かにそのとおり。大きな街とは言えない、こじんまりとした街である。
東西南北に門があり、中央には大きめの広場。それを取り囲むようにして役場や病院、図書館など、公共の施設が並んでいる。その他には住宅街と、ほんの二つ、小さな商店街があるだけ。田舎町、と言ってもいいかもしれない規模だ。
宿屋を出て通りを歩く。
しっとりとした石畳の地面。立ち並ぶのは、さほど大きくない質素な家々。すれ違う人々は、荷物を抱えた女性、走り回る子供、仕事中らしき青年――多種多様。しかし、庶民的な雰囲気があることは共通している。
ヴィントの街並みは、中世ヨーロッパのそれととてもよく似ている。細かいところを見れば相違点はあるのだろうが、パッと見ただけでは、教科書やテレビで見た中世ヨーロッパの街並みそのものに見える。通行人の格好もそれっぽい。この辺り一帯が中世ヨーロッパによく似た文化なのか、ヴィントが似ているだけなのかはよくわからないが、この雰囲気は好きだ。
「まずは広場へ行きましょうか。その後、商店街を少し歩いてみましょう。住宅街は、雰囲気を掴むためということで、少しだけ……一部だけ見てみましょうか。住人でない人間があまり長くうろついていると、不審に思われるかもしれませんからねえ」
そのルートが最も良さそうだ。広場と商店街を除けば、あとは住宅街があるばかりのヴィント。住宅街を長々と歩くのは良くない、というのも賛成だ。私は黙って頷いた。
広場は予想以上にこじんまりとしていた。中央に小さな噴水があって、ベンチがいくつかあって、それを取り囲むように植込みが配置されている。住民の憩いの場として利用されているらしく、散歩をしている人、仕事の合間の休憩中らしき人、子供たちなどで賑わっていた。
周囲には地図の通りに役場や図書館などがあって、そちらもそれなりに人の出入りがある。生活に必要な公共施設がひととおり並んでいるところを見ると、そういった建物はほぼ全て広場の周りに集中しているのだろう。
広場の次は、商店街に行った。
東のほうにある商店街は、かなり活気があった。食料品店、雑貨屋、鍛冶屋、仕立て屋、家具の修理屋――いろんな店が立ち並び、通りには絶えず買い物客の姿が見える。見ているだけでわくわくする光景だった。
特に鍛冶屋と魔法道具屋はまったく馴染みのない種類の店だったので、通りかかったとき、本気で胸が高鳴った。鍛冶屋から聞こえてくる製鉄の音、魔法道具屋の窓から除くいかにもマジカルな道具たち。じっくり見てみたかったけれど、鍛冶屋は男の人がたくさんいそうで怖かったし、魔法道具屋にはまったく客がいなかったので入りづらく、結局、素通りした。
東のほうとは反対に、西のほうの商店街は、すっかり寂れていた。店は一通りあるものの、買い物客の姿は数えるほどだし、閉店してしまっている店もいくつかあった。心なしか、店先の掃除をする店員さんたちの顔も曇っているように見えた。
最後に住宅街。見分けがつかないほど似た外観の家々が、ずらーっと立ち並んでいる。仕事や買い物に出かけている人が多いらしく、通りは閑散としていた。ここは特に見るものもなく、すぐに通りすぎた。
宿屋に帰ったのは、空の色が藍色に近付き始めた頃。
一階の酒場部分で腰を落ち着け、夕食を注文し――一息ついたところで、イシュタールがにっこりと微笑んだ。
「どうでした? 何か気になったところは?」
今日見たところを思い返してみる。特に気になったところといえば、商店街だろうか。いろいろと興味深い。
「商店街……ですかね。面白そうで」
「ああ、そうですよね。鈴さんには馴染みのないお店もあったでしょうし……。すみません、もしかしたらもっと見たかったですか? 割とすぐに見終わってしまって……」
「いえ、そんな。全然大丈夫です」
本当はもっと見たかったけど、気後れしたのは私自身だ。イシュタールはゆっくりついてきてくれただけである。
「そうですか。――一日ではわからないかもしれないですけど……ヴィントはいかがでしたか? 気に入ったならもう少し滞在してもいいですし、気に入らなかったのなら、明日にでも発ちましょう。いろんなところを旅して、じっくりこの世界のことを知っていくのもいいと思いますし」
私は少し考えた。
選り好みをしてもしょうがない――と、ヴィントに入る前は思っていたが。正直、今もその気持ちは変わっていない。
魔法師になりたいならベール王国に行くべきだと言われて興味を持ったこともあったが、だいぶ大変そうだし、今はそれほど行きたいと思っていない。
見たところ、ヴィントは小さいけれど居心地は良さそうな街だったし……。
「気に入りました。……というか……あの、ヴィントに住んじゃおうかな、と……」
イシュタールは目を丸くした。
「え、いいんですか。ここは最初に立ち寄った街ですよ。そんなすぐ決めちゃうのは……?」
「い、いや、いいんです。その……いろいろと見ていくと、選り好みしちゃいそうな気がして。それなら、すぐにぱっと住む場所を決めちゃったほうがいいかなって」
それに、なるべくイシュタールに迷惑をかけたくないし。すぐに住む場所を決めて、すぐに慣れてしまえば、イシュタールはそれだけ早く集落に帰ることができる。三年後には『魔』がやって来る、とかいう話だ。彼にもイヴァルスの一族の中でやるべきことがあるだろう。なるべく早く帰してあげたほうがいい。
「そうですか……では、明日、職業紹介所に行ってみましょうか。後ろ盾なしでいきなり住む場所を見つけるのは難しいですし、宿屋暮らしではお金がなくなってしまいます。ヴィントに住むというのなら、住み込みの職場を見つけるのが一番やりやすいでしょう」
最初は驚いていたイシュタールだが、すぐに協力的になってくれた。
「ヴィントに慣れるまでは、きちんと支えさせて頂きます。ご心配なさらず」
嬉しい。ありがたい。早く帰りたいなどと思っていないのか――少なくとも、態度には出さないようにしてくれている。いい人だ。
「あ、でも、もし私が住み込みで働き始めたら、イシュタールさんはどこに住むんですか。ずっと宿屋は厳しいし……馬車も預けっぱなしだし……」
「僕は鈴さんの職が決まり次第、街の外で馬車暮らしをします。そうすれば宿代もかからないし、馬車を預けるお金もいらない」
今度は私が目を丸くする番だった。
「ええっ。つ、つらくないですか、それ……ずっと馬車暮らしなんて……」
「いえいえ、大丈夫ですよ。イヴァルスの一族は、旅をしながら暮らしています。集落を形成できる土地に行き着くまでの道中は、ずっと馬車の中で寝泊りをしています。数ヶ月、半年、一年……と馬車暮らしをしたこともあります。まったく問題ないですよ」
そうなのか。イシュタールは実は逞しい人のようだ。旅なんてしたことがなかった身としては、馬車暮らしが何ヶ月も続くなんて、考えただけで大変そうなのだが。
「明日、早速、職業紹介所へ行きましょう。もちろんお供します!」
にっこり。イシュタールが笑うと、何だか目を合わせていられない。……まあ、もともと人の目を見て話すのは苦手なんだけど。




