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Nothing changes  作者: 希月律
第一章
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異世界

 ひんやりとした空気に頬を撫でられ、目が覚めた。

 寒い。何だこれ。こんなに寒いわけがない。だって、私は部屋にいた。エアコンをつけた、暖かい部屋の中に――。

 意識が明瞭になると、途端に鳥肌が立った。――違う。ここは私の部屋じゃない。なら、ここは、どこ?

 上半身だけを起こし、周囲を見回す。暗くてよくわからないけれど、屋外であることだけは確かだ。ずっと遠くに月らしいものが見えるし、地面には草が生えている。

 寒さと恐怖に、私は自分の体を抱くように、両肩に手をかけた。寒い。おそろしく寒い。パジャマ姿なのも、やたらと寒い理由かもしれないが。

 わけがわからない。ここはどこだ。どうしてこんなところにいるのだ。気丈になんて振舞えない。私はがくがく震えながら、じっとその場に座り込んでいた。


 ――と、足音がした。

 弾かれたようにそちらに顔を向ける。

 まず目に入ったのは、薄ぼんやりとした灯り。

 ランプ、だろうか? 次いで、灯りを持った人影が見えた。ゆったりとした衣服に身を包んでいる。

 人影が近付いてくる。

「これは……」

 男性の声。少し震えている。動揺しているように聞こえる。

 すぐそばまで来た人影が、すっと腰を落とした。視線がかち合う。

 ――渋い中年男性だ。真っ白なフードをかぶり、同色の服に身を包んでいる。

「何ということだ……どうして……」

 男性はわなわなと震えている。何がなんだかわからない。

 男性の背後から、がやがやと複数の声が聞こえてきた。次いで、ランプの明かりといくつもの人影。彼らは私を取り囲むと、口々に言い合いを始めた。

「どういうことだ?」

(おさ)の予知が間違っているはずがない。逞しい若者のはずだ。女だぞ」

「どうして……?」

「儀式は完璧だったのに」

 状況はわからないが、彼らが何やら深刻そうだということだけは理解できる。私は寒さに震えながら、彼らの話し合いが終わるのを待った。

「……とりあえず、長に――」

 誰かがそう言った、瞬間。

「ごめんなさいぃっ!」

 闇夜を切り裂くような悲痛な叫び声が、どこからか聞こえてきた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! 僕のせいなんです! 僕が間違ってしまって……そのせいで、召喚が……!」

 声は徐々に近くなり、やがて、人垣を割って一人の青年が目の前に転がり出てきた。


 銀色が、しゃらり、と揺れた。


 青年は、銀色の長い髪を持つ美男子だった。雪のように白い肌とアイスブルーの瞳が、闇の中によく映える。

「あああっ、貴方ですね! 本当にごめんなさい! 僕のせいで、こんなことになってしまって……」

 僕のせい。私がこんな見知らぬ場所にいるのは、彼のせいなのだろうか。とはいえ、事情がわからないのであまりピンと来ない。

 青年は今にも泣き出しそうになりながら、ひたすらに頭を地面にこすりつけている。

「あ、いや、あの……」

「ごめんなさい! きっと驚いていることでしょう。あああ、何とお詫びすればいいのか……と、とりあえず、こちらへいらしてください。僕と長から説明させて頂きます……っ!」

 涙声でそう言われては、頷くしかない。

 私は頭の中を「?」マークで満杯にしながら、ゆっくりと立ち上がった。





 青年について歩いているうちに、暗闇に少し目が慣れてきた。

 よく見ると、周囲にはいくつかのテントが張られていた。暗闇に溶け込むような暗い色なので、すぐにはわからなかった。今も細部までは見えないけれど。

 背後を振り返ると、先ほど私を取り囲んでいた人たちが、やや離れた位置を歩いてはいるものの、ついてきていた。歩きながら、何やら口々に話し合っているのがわかる。

 こんなに注目されたことはいまだかつてないかもしれない。しかし、良い意味で注目されているのではないことは確かだ。嬉しいどころか、気まずくて仕方がない。

 私は肩に羽織った白いマントの裾を、胸の前でぎゅっと引き寄せた。ぶるぶる震えているのに気付いた青年が、どこかからかマントを持ってきてくれたのだ。ありがたい。

 やがて、青年が立ち止まった。すぐそばには、他のテントに比べて大きめのテントがある。

「ここです。少し待っていてくださいね」

 そう言うと、青年は先に一人でテントに入ってしまった。

 取り残されると、急に夜風の冷たさが身に沁みた。

 周りの人たちは、今もひそひそと囁き合っている。途切れ途切れに聞こえる言葉は、まったく馴染みのないものばかり。

「召喚の儀に失敗するなど、前代未聞だ」

「長の予知が外れたのかと思ったが……まったく、あの若造のせいか」

「どうしてあいつに任せたんだ」

「本来やるべきだった者が、病に倒れたんだそうだ。代わりがいなかったんだと」

「はぁ……世界の危機だというのに、こんなことになるなんて。次の召喚の儀は一体いつになる?」

 私は俯いたまま、よくわからない話に耳をそばだてていた。

「お入りください」

 と、テントの中から声がかかった。

 私はもう一度、周囲をぐるりと見回してから、そっとテントの入り口をかきわけた。


 テントの中は……何と言うか、圧倒的。

 不思議な柄のタペストリーとか、よくわからない像とか、きらきら輝く宝石だとか。そういったものがテント中に並べられている。

 中央に座るのは、明らかに九十年以上は年を重ねていそうなご老人。青年同様、真っ白なローブを着ているけど、袖口に刺繍が施されていたりと、細かく見ると少し違う。

 老人のすぐそばには、青年が座っている。申し訳なさそうな、落ち込んだ表情が痛々しい。

「まあ、お座りなさい」

 老人に言われ、私は入り口を入ってすぐのところに正座した。

「私はイヴァルスの長、ゼティームス。こちらはイヴァルスの儀礼官、イシュタールだ」

 青年が軽く頭を下げた。銀色がふわりと揺れる。

「すまないが、お前さんの名前を教えてくれるかね」

「えっ……と、鈴――夏村鈴(なつむらりん)です」

 鈴。苗字はともかく、名前のほうは私は気に入っていない。小さい頃からコンプレックスだった。こんな可愛らしい名前、私には似合わないから。

「ナツムラ、リン……どう呼べばいい?」

「鈴、で結構です」

 老人――ゼティームスさんは小さく咳払いをすると、深刻そうに口を開いた。

「おそらく、何もかもがわからない状態だとは思うが……鈴よ、ひとまず謝らせてもらう。本当に申し訳ない」

 頭を下げられ、驚く。イシュタールはゼティームスさんより深々と、土下座に近いほど頭を下げていた。

「一つずつ説明しよう。ここはどこか、どうしてお前さんはこんなところに来てしまったのか。少し長くなるが……」

 説明はむしろお願いしたいところだ。私は姿勢を正すと、こくりと頷いた。


「まず……ここは、お前さんの住んでいた世界とは違う世界だ。お前さんからすれば、異世界ということになるのかな」

 異世界。

 その言葉が出てきた瞬間、私の中で時が止まった。

「名は、ローヴァリース。永遠の暗黒の中央に屹立する、唯一の聖地――と、神話は教えておる」

「えいえんのあんこくのちゅうおうにきつりつする、ゆいいつのせいち」

 何だかよくわからん。思わずそのまま口に出してしまった。

「まあ、細かいことは気にしなくて良い。ここが鈴――お前さんの生きていた世界とはまるで違う世界だということ、この世界がローヴァリースという名前だということ。それだけ知っておいてくれ」

 どちらにしても理解などできない。私は素直に頷いた。

「なぜ、ローヴァリースに来てしまったのか。それは、完全にこちらの手違い、誤りだ。お前さんは一方的な被害者と言える」

 ほほう。

「ローヴァリースには、今、大きな危機が訪れておる。いや、訪れようとしている、と言うべきか。――今は平和だが、三年と二ヵ月後、永遠の暗黒の奥から、全てを喰らい尽くす『魔』が生まれる。『魔』は暗闇を喰い尽くし、ローヴァリースも喰い尽くし、最期には己をも食い尽くして滅びる」

 何だか洒落にならない話だ。しかも三年後って、けっこう近いし。

「我々はイヴァルス――自然の理を操り、未来を見る一族だ。今でこそ世界の片隅に追いやられているが、かつては予知の力で幾度も人々を救った。今回は……私が予知をした。『魔』のこと、生まれる時期、ローヴァリースがどうなるか。……おそらく間違いはない」

 予知、というものに馴染みのない生活をしてきた私としては、いまいちピンと来ない。けれど、この重々しい雰囲気から言って、少なくとも彼らにとっては真実なのだろう。

「私は滅びの未来と共に、希望の未来をも見た。『異なる大地より、英雄が来たる。彼の者は、誰かに呼ばれることでローヴァリースを訪れる。勇猛果敢、強き肉体を持つ、黄金の髪の青年。彼こそが英雄である』と――」

 超ファンタジック。

 私は頭がくらくらした。こんな話を現実に聞くことになるとは。そりゃあ、異世界に召喚されてどーのこーのと妄想したことはあるけれど、心底から信じてはいなかった。

「我々は召喚の儀を執り行うことにした。早々に英雄をローヴァリースに召喚し、『魔』を滅ぼしてもらおうと。だが……」

 ゼティームスさんが、じろりとイシュタールを睨んだ。

「す、すいません……!」

 イシュタールは顔面蒼白になりながらも、きっと前を見据えた。

「ここだけは僕が説明させて頂きます。ええと、ですね。召喚の儀には、様々な準備や道具が必要なんです。そのどれか一つが欠けても、召喚は成功しない。とても繊細で難しいものなんです。なので、経験を積んだ、優れた儀礼官のみが儀にたずさわる……ん……ですが……」

 イシュタールが肩を落とす。

「道具を用意するはずだった方が、数日前に病に倒れてしまいまして……他の儀礼官が複数人でその方の代わりを務めることになりました。それで……僕が、道具を一つ、間違えてしまって」

 何だか、少し話がわかってきた気がする。

「そのせいで、召喚の儀が……歪んで……本来召喚しようとしていた方ではなく、鈴さん――貴方が召喚されてしまったのです。場所がずれてしまったようで……召喚されるはずだった方は、鈴さんの住む場所からは遠く離れた場所に住んでいたはずです。鈴さんはまったくのとばっちりでローヴァリースに来たのです……」

 なるほど。

 白いローブの人たちの会話の意味が理解できた。最初に私のところに来た男性が、どうしてあんなに驚いていたのかも。そりゃあ、金髪の逞しい青年が来ると思っていたのが、まるでかすりもしない私がいたんじゃ、びっくりするだろう。

「召喚の儀は、また改めて行うとして……問題は、鈴さんです」

 イシュタールの目に涙が浮かぶ。

「本当に、申し訳ございませんっ! 鈴さんにもご家族がいたでしょう。友人や恋人も……そういった方々から引き離して、こんな見も知らぬ場所に連れてきてしまって……全ては僕の責任です! どのような罵倒も罰も受けます! 本当に申し訳ございませんでしたぁっ!」

 どちらかというと、今の彼の言葉のほうに傷ついた。友人? 恋人? いねえよ。

「え、ええっと……召喚できるってことは、もとの場所に帰したりもできるんじゃないんですか。そうしてもらえれば……」

「それが、できないんです。召喚の儀というのは一方通行。呼び出せば帰れません。なので、英雄さんには少し前から思念を送り、覚悟を決めてもらっていたのですが……鈴さんはまったくの突然ですもんねえ」

 またイシュタールの目に涙が浮かんだ。よく泣く奴だ。

「ということは、私は……帰れない?」

「そう、なんです……」

 さすがにショックだ。友人や恋人はいないからともかくとして、家族にすら会えないとは。


 ――家族……。

 私は両親の顔を思い浮かべた。

 私がもしいなくなったら、両親は――。

 ……ああ、でも、私の場合……。


「……わかりました。帰れないのなら仕方ないですね」

 私は膝の上できゅっと手を握りしめると、溜息と共にそう言った。

「帰れないとなったら、私はどうすればいいんでしょうか。何もわからないんです」

 イシュタールがきょとんとした顔をしている。きっと、予想以上に私が落ち着いているからだろう。

 安心してくれ、イシュタール。私の家は普通の家とはちと違う。いろいろあるのだ。そう……娘がいきなりいなくなっても誰も悲しまないくらい、いろいろ。

「こちらの手違いで召喚してしまったのに、そのまま放り出すような真似はせんよ。お前さんがローヴァリースに慣れ、一人で生きていけるようになるまで、イシュタールをつける」

「はい。不束者ですが、貴方についていきます」

 三つ指ついて、の体勢で、イシュタールが私に頭を下げる。

 えええ。

「僕のせいでこんなことになってしまったのです。責任は取らなくてはなりません。僕などいなくても大丈夫になるまで、鈴さんにどこまでもついていって、支えさせて頂きます。わからないことには、何でもお答えします。こ、これから、宜しくお願い致します……!」

 また涙ぐんでいる。少し落ち着け。

 私は何と言ったらいいのかわからないまま、ゼティームスさんとイシュタールを交互に見つめた。


 ほんの数時間前までは、明日も昨日の繰り返しだと思っていた。

 つまらない生活。大学に行ってアルバイトをして寝るだけ。安穏とした暮らし。

 なのに、なんてことだろう。異世界に召喚されてしまうなんて。


 ふと、『パステル・リンク・ファンタジア』のことが頭に浮かんだ。

 突然の召喚。ファンタジックな異世界。成り行きで行動を共にすることになる美青年。

 条件は一緒なのに、全然違う。あんなにふわふわした感じじゃない。不安ばかりが押し寄せる。


 明日、目が覚めたら、私はどこにいる?

 いつもと同じベッドの上だったら――私は、喜ぶ? それとも、がっかりするのかな?

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