だから、今夜は甘えさせて。
「あーもうムカつく!」
あまりにもありきたりな文句が私の口をつく。
そろそろ日が落ちるのが早くなってきた10月。
最寄駅から自宅までの道を歩きながら、少し肌寒くなってきた秋の空気くらいでは到底鎮まらないほど、私は憤っていた。
「マジでムカつく!ただでさえこっちは仕事できないおっさんの尻ぬぐいしてやってるってのに、なんで怒られるのまで代わりにやってあげなきゃなんないのよ!」
女だから、若いから、それだけで軽く見られるのは今に始まったことじゃない。
そういう職場だ。しょうがない。そう割り切っているつもりだ。
それでも、堪忍袋の緒が切れそうになる日はどうしてもある。
これでまだ水曜だなんて。
マンションに着き、エレベーターに乗りながらため息をついた。
だめだ、今日ばっかりは全然切り替えられる気がしない。
いいよね。たまにはいいよね。
そう言い聞かせながら外廊下を歩く。
苛立ちをいっぱいに抱えた手で鍵を取り出し、ドアを開けた。
廊下の灯りの向こうから、トントンとリズムよく捌かれる包丁の音が聞こえてくる。
パンプスを脱ぎ捨て音の鳴る方へ進むと、深緑色のエプロンを身に付けた広い背中が視界に入った。
私に気づいた彼が、手を止めて振り返る。口元に柔らかな笑みを浮かべて言う。
「奈々、おかえり」
もう、だめだった。
床を蹴り、勢いのままエプロンの上から満を抱きしめた。
全身を預けるように、わがままに、身体に回した両腕で強く強く抱き寄せる。
「わっ、危ないよ、奈々」
満が慌てて包丁をまな板の上へ置く。
そうして、「どうしたの?」と優しく聞いてくる。
私の方が年上で、いつもお姉さん然としているから、らしくないことをする私に何かあったとすぐわかったのだろう。
今日ばっかりはいいよね、と心の中で囁きながら、私は満を見上げた。
「甘えさせて」
なんで、こんな単刀直入にしか言えないんだろう。
もっと何か雰囲気を出す言い回しとかあるだろう。
そう勝手に脳内反省会を始める私を見下ろして、一度驚いた表情を浮かべた満の顔が次第に満面の笑みに変わっていく。
背中が、温かく包み込まれる。
「嬉しい、いいよ」
満の手のひらの温かさに、こわばっていた心が解きほぐされていくのを感じる。
満の「おかえり」が、柔らかな笑顔が、温かな抱擁が、私を癒してくれる魔法だ。
あなたが辛い時には、私が魔法をかけてあげられる自分でいるから。
だから、今夜は甘えさせて。




