取り替えのバス — 座るだけで、誰かの“何か”が入れ替わる。
取り替えのバス — 終バスの“交換座席”
1. 乗車
終電を逃した夜は、空気の粒が大きい。吸い込むたび、喉の奥でざらついて、少しだけ涙が出そうになる。駅前ロータリーの電光掲示板は『23:40 丘上車庫行き』を点滅させ、放送が噛む。
——つぎは、さいしゅう、最終、……四十分発。
機械が噛むのなら、人間の間違いは免れるべきだ。新人記者の早瀬唯は、メモ帳をコートの内ポケットに押し込み、走って乗り場へ向かった。
車体は古い。白い塗装は黄ばみ、側面の路線名はかすれている。扉が開くたび、季節外れの乾いた風が鼻を抜け、消毒液の匂いが遅れて追いかけてきた。ICカードを当てると高い音が鳴り、そこに半拍遅れて、濁った低音が尾を引く。二重に鳴ったのか、耳鳴りか。眠気のせいだと決め、唯は中ほどの席へ目を走らせた。
そこで、引っかかる。最後部の一人掛けの、ひとつ手前。布地が他より深く擦り切れて色が沈み、肘掛けには煤けた小さな鈴が赤い糸で結わえられている。新しい結び目と古い鈴。合わない寿命が隣り合うとき、人は言葉を失う。
「その席は、やめなさい」
声の主は白髪の男だった。七十代だろう。杖はない。背筋は真っ直ぐで、目尻に子どものような艶がある。
「酔ってませんよ、私」 「眠いかどうかを聞いてる。眠い顔だ」
唯は苦笑して会釈し、二人掛けの窓側に落ち着いた。男は最後部の一人掛けの前に立ち、手袋をはずして鈴へそっと触れる。鳴ると思った音は鳴らず、代わりに天井灯が一瞬だけ呼吸したみたいに明滅した。
数人が乗ってきた。酔客、制服の高校生、夜勤明けの介護士らしい女性。皆、あの一人掛けに一度視線を寄越してから、すぐ逸らす。どうでもいい偶然でも、三度続けば兆しになる。
「次は——駅前二丁目——おわかちください」
唯は顔を上げた。アナウンスは「おゆずりください」と言うはずだ。譲る、と分かち合う。どちらでも社会は回るが、意味は違う。
ルームミラー越しに運転士と目が合った。四十代、痩せ型、規則に従う骨格。目が合った瞬間、彼は視線を窓に跳ね返した。見なかったふりの訓練を、長く積んだ人の癖。
降車ボタンが押される。チーン、と高く、そこに低音が重なる。最初の停留所で降りたのは、立っていた酔客だった。ホームドアにぶつかったみたいにふらつき、手すりを掴む。替わって高校生が最後部の一人掛けに腰を下ろし、鼻歌を始めた。意外に上手い。降りていく酔客が一瞬だけ、澄んだ声で「ありがとうございました」と言ったことを、唯はその場で置き忘れた。
二つ目の停留所で介護士が降り、彼女の荒れた手のひびに唯は目をやった。その瞬間、後ろの高校生が指先を気にしてぱちぱち弾く気配が伝わってくる。乾燥の移り香のような、因果の小移動。
「終バスはね、似た匂いの人を連れてくる」
白髪の男が前を見たまま言った。
「眠い人、待つ人、戻れない人。あの席は、間違いの帳尻を合わせる」 「間違いって、何の?」 「きみは記者だろう」
唯は反射的にバッグを押さえた。社員証は見えていないはずだ。男は笑って、鈴に触れる。音は鳴らない。鳴らさないのだ。
三つ目の停留所へ向かう坂で、街灯がひとつおきに欠けて見えた。眠気のせいだ。そう思い続けることが、この数年でいちばん上手くなった。
妊婦が乗ってきた。顔に色がなく、唇が薄青い。エコバッグを胸に抱え、指をハンドルみたいに絡めている。運転士は優先席を示したが、妊婦は首を横に振った。
「すぐ病院で……座ると、起き上がれなくなるから」
白髪の男が、最後部の前から一歩だけ退いた。唯の心臓が、胸のなかで場所を少しずらした気がした。
——次は、丘の手前。
降車ボタンが押される。チーン。今度は低い。耳の奥で水が鳴る。妊婦の手が一人掛けの座面に触れ、男が浅く会釈する。
「おわかちください」
アナウンスは、今度ははっきりそう言った。
2. 小さな入れ替わり
妊婦は座らず、手だけを置いて立った。唯はその奇妙な譲り合いを、どこか滑稽に見ていた。立っているなら、譲れない。譲られない。社会は記号に弱い。
降りていったのは、先ほどの高校生だった。鼻歌は止み、彼の背中がドアへ吸い込まれる。ドアが閉まると同時に、妊婦が息を吐いた。その吐息に、別の温度が混ざる。唯はその温度の名を知らないが、体は覚える——回復の温度。
「気のせいじゃないよ」
白髪の男が言った。「交換した。あの席と、いちばん近い誰かとで」
「何を」 「ひとつだけ。いちばん強く願っているものを」
唯は笑い飛ばすかわりに、仕事の癖で記憶を検索する。ここ数年、この沿線で起きた“不可解な善転”と“突発死”の断片。借金常習者が急に依存から抜けた話。潔癖症の青年が突然平気で手すりを掴めるようになった話。逆に、近所の公園で、見知らぬ老人が倒れて亡くなった記事。場所は違うが、時間帯が似ていた。いずれも終バスの後、深夜一時前後。
「きみ、見てる目をしてるね」 「仕事ですから」 「仕事は、どこまで譲れる?」
唯は答えられなかった。自分に問うべきことは、いつも相手の口で聞かされる。
バスは丘へ差しかかる。車窓の向こうで、等間隔の街灯が、ひとつ飛ばしの音符みたいに欠けていく。リズムが変わると、歌の意味が変わる。降車ボタンが押され、また低音が混じる。酔客が降りた停留所の名が、耳の奥では違う音に聞こえた。『清算前』——実際は『青山前』だ。
妊婦の顔に、色が戻りつつあった。頬の血の気が戻ると同時に、白髪の男のこめかみの血管が細く沈む。椅子に座るでも、立つでもない姿勢で、彼は車体の揺れと等速で体を揺らし、どこに重心を置いていいかを探っている。
「あなた、何を譲ってきたんですか」
唯は訊いた。男は笑った。
「いろいろ。膝の強さ、耳の良さ、借金癖、酒気、祈る言葉の根っこ。譲れば戻るものもあれば、戻らないものもある」 「戻らないもの?」 「寿命の残り。これは、戻らない」
言葉が落ち、床で転がる前に、バスが停まった。
3. 記録
停留所の名は『丘の手前』。三人降り、二人乗った。乗ってきたのは、無口そうな青年と、小学生の男の子。青年は立ち、男の子はきょろきょろして、最後部の一人掛けの鈴に気づいた。
「これ、鳴らしていいの?」
白髪の男が軽く首を振る。男の子は舌を出して笑い、母親の袖に掴まる。彼らが座ると、車内の空気が少し散った。
唯はバッグからメモ帳を出す。書く。終バス/交換座席/譲ること=分かつこと?/低い降車音——トリガー?/近い者と交換。書きながら、文章が自分のものではないように感じた。書いた直後の文字の輪郭が、薄く震えて見える。
「それも交換だよ」
白髪の男が言う。
「書く力と、書かれる力の交換」 「どういう」 「記者はね、相手の言葉を借りて自分を作り直す。相手は、あなたの言葉で世界の形を受け取る。どちらかが強すぎると、どちらかが壊れる」
唯はペンを止めた。男は視線を落とし、肘掛けの鈴に触れるふりをした。鈴は鳴らない。鳴らさない。それでも、触れようとする手の気配だけで、空気の粒は大きくなる。
「あなたの名前は」 「榊でいい。ほんとうは違うけれど、きみにはそれでじゅうぶんだ」
榊。仮の名だ。それでも、名は名として働く。唯はページを改め、榊の動きを短い文に切っていく。活字は呼吸を奪う。奪って、均す。
「運転士さん」
唯は前方へ声を投げた。運転士は驚いたようにミラー越しに目を合わせ、すぐ逸らした。
「この席のこと、知ってるんですか」
返事はなかった。規則上の返答を持たない問いだったのだ。彼は規則を持たないことに何より怯える人間で、だからこの路線に残っているのだろう。見えないものは、見ない。見なければ、規則は壊れない。
4. ルール
次の停留所で、青年が降りた。最後部の一人掛けに、彼は座らなかった。代わりに、立ったまま鈴を見つめた。降車ベルが鳴る。低音がひとしずく混じる。
唯は、その瞬間を見た。青年の肩の力がふっと抜け、彼の眉間の皺が浅くなる。同時に、榊の片眉がかすかに寄る。痛みが移ったのだ。痛みは目印になる。世界は目印に従って流れる。
「いくつか、ルールがある」
榊が言った。
「終バスであること。降車の瞬間に、交換が起きること。交換はひとつだけで、座席の着座者と最も近い者のあいだで起きること。何が入れ替わるかは、双方がいちばん強く願うものに引かれること」 「願わないものは、入れ替わらない?」 「原則はそうだ。ただ、願いは、しばしば自分でも知らない形をしている」
唯は自分の願いを探った。仕事で当てるスクープ。上司の評価。記事の拡散数。家賃を払える給料の安定。眠り。眠り。眠り。胸の奥で最後だけ濁音になる。
「座れば、眠りを誰かと交換できる?」 「できるかもしれない。きみがそれを、いちばん強く願うのなら」
眠りを得る代わりに、誰かの眠りを奪う。譲ることは、奪うこと。分かち合うことは、分けること。言葉はだいたい、どちらの側にも立つ。
5. 妊婦
妊婦がふらりと揺れた。唯は立ち上がりかけ、彼女自身が手の平を上げて制するのを見た。
「大丈夫です。もうすぐ、着くから」
大丈夫はいつだって、誰かを安心させるための嘘だ。妊婦の唇の色は、先ほどよりは良いが、まだ戻りきっていない。榊は彼女に背を向けたまま、鈴へ手を伸ばすふりをし、やめ、また伸ばし、やめた。譲ること。譲らないこと。どちらにも重さがある。
「座らなくていいんですか」
唯の声に、妊婦は微笑んだ。
「座ると、起き上がれない気がして」
起き上がれない気がする——それは予感か、予言か。唯には分からない。分からないことは、書けない。書けないことは、起こっていないのと同じになる。
「——次は、病院前」
運転士の声が、機械のアナウンスの上から重ねられた。彼は規則に厳しいが、規則の溝の縁に立つことも、ときどきある。
降車ベル。低音。アナウンスはやはり「おわかちください」と言った。妊婦は最前部で一礼し、降りていった。彼女の足取りは、乗車時よりも確かだった。
ドアが閉まり、バスが発車する。榊が座席の背に手を置き、目を閉じる。唯には見えないなにかが、榊の背骨に沿って下へ下へと降りていく。砂時計の砂の向きが変わる音が、耳の奥で鳴った。
6. 運転士
「運転士さん」
唯は前に声を投げた。彼はミラーで目だけこちらを見て、また前を向く。
「この路線、事故が少ないですね」
沈黙。ひとつ、ふたつ、車体が横断歩道の白い帯を踏む。その数だけ、彼は口を開かない。
「ニュースで見ました。救急搬送も、絡み事故も、同じ時間帯で不自然に分散している。ここを境に、事故が減る」
運転士は、やっと言った。
「……うちは、運がいいんです」
運。運は十分に薄めれば、規則に溶ける。
「その運、どこから来るんです」
答えはなかった。彼は“規則上の沈黙”を守った。守るべきなにかを守るための沈黙には、質量がある。沈黙は、その重さで世界を少しだけへこませる。
7. 交代
丘の上の住宅地が近づき、停留所の名に『終点』の文字が混ざる。もう少しで車庫。車内はまばらだ。残るのは唯、榊、運転士、それから古新聞を抱えた老人。老人は席を立ち、最後部の一人掛けに目をやって、すぐ逸らした。鈴の赤い糸だけが、車体の振動でかすかに揺れる。
降車ボタンが押された。誰が押したのか分からない。もしかすると誰も押していない。音は鳴る。高く、低く。二重の音が短く重なる。
榊が動いた。最後部の一人掛けへ、初めて自ら腰を下ろす。座面が、彼の体重に応じて沈む。鈴は鳴らない。アナウンスが、間違えた言葉を正しく言い直す。
「おゆずりください」
唯が立とうとしたとき、榊は首を振った。目だけで。
「譲るよ」
榊は言った。
「最後に、いちばん重いものを」
唯の喉が干上がる。言葉が出ない。重いもの。榊の目に、長い時間の色が差して、そこに短い時間の影が落ちる。鈴はまだ鳴らない。
「待ってください」
唯は前に出た。彼女の足が、無意識に通路の幅を測る。榊まで、五歩。榊から降車口まで、三歩。運転士はブレーキを浅く踏み、車体はなだめられた獣のように揺れを小さくする。
「あなたが譲らなくてもいい。誰か、別の——」
榊は微笑んだ。子どもに向ける笑い方だった。
「譲るんだよ。譲るために、ここにいた」
降車ベルが鳴る。低音が深く混じる。車体が停まる。ドアが開く。冷えた空気が薄く流れ込む。
アナウンスが言った。
「おわかちください」
鈴は鳴らないのに、鈴の音が聞こえた。榊の顔から、何かが剥がれ落ちる。妊婦の胎動の音が、遠くから逆流してくるみたいに、唯の耳の奥を通り過ぎる。榊の胸がひとつ大きく上下し、次の上下を忘れた。
唯は駆け寄った。体は温かい。重い。温かいものは、重い。呼吸は戻らない。運転士が無線で連絡し、次の便の折返しの調整が、無関係な声で進んでいく。路線が、人の死より優先される瞬間は、世界にいくらでもある。
床に転がった榊の手から、小さな手帳が滑り出た。唯は反射的に拾う。表紙は古い運行表で、ページの端に赤いペンの小さな記号が並んでいる。停留所名、日時、天候、そして短いメモ。
——若者:膝/受け渡し。
——主婦:清潔癖/受け取り。
——酔客:声/受け渡し。
——見知らぬ老人:寿命一部/受け取り。
最後のページに、狭い字で書かれていた。
——妊婦:胎動/受け渡し。寿命/受け渡し。次管理者、選定。
唯は紙を握り締めた。赤いペンのインクが、指の跡に湿って移る。運転士がこちらを見た。目の色が、さっきとは違う。違う色を、彼も認めたのだろうか。彼は何も言わない。規則を壊す言葉は、彼の口からは出てこない。
8. 継承
救急のサイレンは来なかった。この時間帯、丘の上の道は工事中で、別路線の待ち合わせがあるという。路線の理屈は、個人の理屈より強い。榊はシートで覆われ、車体の後部の、座席と座席のあいだに横たえられた。唯は自分の心拍を片手で数え、数が数の役目を果たさなくなるのを待った。
鈴が鳴った。初めて、はっきりと。榊の手から離れたのに、鈴は鳴る。赤い糸は揺れる。誰も触れていないのに。
「次は——」
アナウンスが言葉を探す。止まる。別の声が、唯の耳のすぐ近くで囁く。機械ではない。座席の布地の毛羽立ちが、乾いた音で擦れるのと同じ高さの声。
——つぎは、きみの番。
唯は立ち尽くした。運転士がこちらを見る。目の色は、もう普通だ。普通はいつでも、最も恐ろしい。
「……座れ、ってことですか」
返事はない。鈴がもう一度鳴る。最後部の一人掛けは、唯のために空いている。榊の体温が、座面の肉の奥に残っている気がする。
唯は座らなかった。代わりに、最後部の前に立ち、鈴を見た。鈴は見返さない。見返さないものと、どう関係を作ればいいのか、唯は知らない。
「管理者」
唯は口にした。言葉が、口腔の内側でひどく生々しい。
「管理者って、何をするんですか」
座席は答えない。鈴が、代わりに短く鳴る。鳴ったあと、空気の粒がまた大きくなる。吸うと、喉がざらつく。
榊の手帳を開く。最初のページに、小さく注意書きがあった。
——管理権:一定回数の譲渡を重ねた者に発生。座席の意思により次席へ継承。管理者は交換の偏りを緩和できる(鈴で“呼ぶ”)。呼び過ぎれば、破綻する。呼ばなければ、偏る。
呼ぶ。呼ぶのか。呼ぶとは、誰かを選ぶことだ。選ばないこともまた、誰かを選ぶことだ。
運転士が言った。
「終点です。折り返します」
唯は頷いた。乗客はもういない。榊は白い布の下に静かにいる。運転士は目を閉じ、短い祈りの気配を作ってから、ギアを入れた。終点は車庫だ。だが、終わりはそこではない。
9. もう一周
折り返しのバスは、同じ道を辿るのに、別の道のようだった。街灯は今度は倍に見える。眠いせいだろう、と唯はまた思う。眠いことにしておく。
最初に乗ってきたのは、若い女の子だった。イヤホンをして、画面を見たまま乗り、最後部の一人掛けに気づいて、足を止めた。鈴は鳴らない。女の子は座らず、通路側に立つ。
唯は手帳を開き、赤いペンで小さく書く。——呼ばない。呼ぶことは、選ぶこと。選ぶことは、奪うこと。奪うことは、譲ること。言葉の輪が、ページの上でくるくる回る。
次の停留所で、壮年の男が乗る。手には診察券。指が震えている。最後部の一人掛けに目をやり、遠巻きに立つ。鈴は鳴らない。唯は呼ばない。呼べる気配が、喉の後ろの方で待っているが、呼ばない。榊の手帳の文字が、紙の上で静かにこちらを見ている。
三つ目の停留所。酔客。四つ目。学生。五つ目。介護士。世界は繰り返す。繰り返しのなかで、別のことが起きる。妊婦は乗ってこない。代わりに、乳母車を押す若い父親が乗り、子どもは眠っている。鈴は鳴らない。
唯は自分の胸の奥を覗き込む。眠りが欲しい。記事が欲しい。許しが欲しい。赦しが欲しい。似ているが違う二語の間で、心臓は小さく位置を変える。
降車ベル。音程は高い。低音は混ざらない。何も交換されないまま、バスは止まり、動く。その安堵が、逆に不安を育てるのを、唯は観察する。人は、不安がないと不安になる。
丘の手前で、女の子が降りた。壮年の男も降りた。酔客は乗ったまま眠っている。唯は鈴を見た。鈴は、ただ鈴だった。小さく、煤けて、赤い糸に結ばれている。
「呼ばないのか」
運転士の声だった。珍しいことに、彼は振り向いた。規則の縁に立つ顔になっていた。
「呼ばなければ、偏る。偏れば、どこかで破綻する」
唯は答えられない。彼の言葉は榊の注意書きと同じだった。路線は、個人より長い。同じ言葉が別の口から出るとき、意味は質量を増す。
「あなたは、これまで見て見ぬふりをしてきた」
唯は言った。「それが仕事だった。でも、今は違うでしょう」
運転士は目を細めた。細められた目には、眠気とは別の光がある。
「違うのかもしれません」
違う。違ってしまったのだ。榊の死は、規則の外側にある出来事を、規則の内側へ少しだけ引き寄せた。
降車ベル。低音が、ひとしずく混じる。唯は振り返る。最後部の一人掛けに、見知らぬ中年の女が座っていた。いつ乗ってきたのか分からない。彼女は手を膝に重ね、まっすぐ前を見ている。肩が硬い。緊張の形が分かる。鈴は鳴らない。彼女の隣に最も近いのは、通路側に立つ学生だ。彼の目の下に、深い隈。
「眠りが欲しい人が、二人」
唯はつぶやき、喉の後ろで待っていた“呼ぶ”の気配を、少しだけ手前へ引き寄せた。鈴がかすかに震える。震えが空気へ移り、空気が喉へ移る。
——呼ぶ?
声にならない声で、座席が訊く。唯は首を縦に振った。
鈴が鳴る。短く。学生の目が、わずかに見開く。降車ベル。低音。交換。学生の肩が落ち、女の口元が緩む。眠りが移った。眠りは、安堵の形をして世界をなだめる。
唯は吐息を漏らした。呼ぶことは選ぶことだ。選ぶと、世界は向きを少し変える。指先の汗が乾いて、紙の上で赤いインクが鈍く光る。
10. 記事
翌朝、唯はデスクに記事の企画を出した。『終バスの“善転”と“突発死”の時系列相関』。デスクは眉を上げ、腕を組み、要注意の印を付け、そして笑った。
「都市伝説に足を取られるなよ。数字で出せ」
数字。数字は世界を均す。均し過ぎると、世界は平らになりすぎて、滑る。
唯はデータベースを叩いた。変数を絞り、時間帯で切り、地図の上へ点を置く。点と点を線で結んで、線の濃さを濃淡で塗る。終バスの通る道の片側でだけ、濃さの揺らぎが小さい。偶然か。偶然を疑い続けることが、仕事のもう半分だ。
夕方、唯は再び終バスに乗った。鈴はそこにあり、赤い糸は昨日と同じ強さで結ばれている。同じ強さ——それは、言い換えれば、ほどけやすさでもある。
榊の手帳を持っている。返す相手はいない。持っていることは、持ち続けることだ。持ち続けることは、ときに譲らないことだ。
11. 寿命
三夜目。鈴は、二度鳴った。ひとつは、老いた犬を抱えた男が乗ったとき。彼は最後部の一人掛けの近くに立ち、犬の体温を胸で受け止めていた。降車ベル。低音。交換。犬の呼吸が安定し、男の指先から力が抜ける。犬は長くはないだろう。だが、今夜は長い。
もうひとつは、唯の中で鳴った。誰も聞かない鈴の音が、唯の耳の奥で転がる。眠りが欲しい。記事が欲しい。赦しが欲しい。誰からの。自分からの。
榊の最後の譲渡は、寿命だった。寿命は、戻らない。戻らないものは、譲るべきではないのか。譲るべきなのか。唯は答えられない。
12. 選ぶ
四夜目。妊婦が再び乗ってきた。顔色は良い。彼女は小さく会釈した。
「このあいだは、ありがとうございました」
唯は首を振る。彼女は気づかない。気づかないことは、多くの場合、優しさだ。
「検診で、問題ないって」
彼女は笑い、降りていった。鈴は鳴らない。鳴らなくていい音は、世界にたくさんある。
五夜目。唯は初めて、自分で最後部の一人掛けに腰を下ろした。座面は柔らかい。体温は誰かのものの名残を保ち、唯の温度に馴染むまでに数秒を要した。鈴は、鳴らない。鳴らさない。
降車ベル。音は高い。低音は混ざらない。交換は起きない。起きないことが、起きる。世界は、起きなかったことでもできている。
六夜目。唯は鈴を鳴らした。短く。呼んだ。呼ばれたのは、最後部のいちばん近くに立っていた老婦人だった。彼女は目を閉じ、深く息を吸い、降車ベルで息を吐いた。歩幅が広がる。杖がいらなくなる。榊がかつて受け取って、また返した膝の強さが、別の誰かへ渡る。
七夜目。運転士が言った。
「あなた、眠れてますか」
唯は笑った。問いの形の優しさに、答えの形で返す義務はない。
「少し」
少しは、だいたい嘘だ。彼は頷く。頷くことは、見なかったふりではない。見て、頷く。
13. 折り目
榊の手帳の最後のページに、もう一行書き加えた。
——譲ることは、奪うこと。奪うことは、譲ること。だから、記録すること。
記録。記録は、奪うことでもある。出来事から、出来事自身の無数の可能性を奪って、ひとつの文に閉じ込める。だが、記録しなければ、出来事は流れてどこにも留まらない。どちらも暴力。どちらも救い。
唯は手帳を閉じ、鈴を見た。赤い糸の結び目は、最初より心持ちゆるい。ほどけることは、次へ渡すことでもある。渡さないと、世界は偏る。
14. ラスト
八夜目。降車ベルの低音が、深く混じった。唯は反射的に鈴へ手を伸ばし、やめた。呼ばない。呼ばずに、交換が起きるときがある。座席の意思。座席が、選ぶ。
最後部の一人掛けに、誰も座っていないのに、交換の風が通る。誰かの寿命が、誰かの眠りが、誰かの声が、誰かの祈りが、糸の束みたいに撚られ、ほどけ、ゆっくり位置を換える。唯は目を閉じる。目を閉じることは、見ることでもある。
アナウンスが言った。
「次は——あなたです」
機械の声なのに、唯自身の声に聞こえた。鈴が鳴る。短く。赤い糸が、ほどけかけて、止まる。
唯は降車ボタンに触れた。降りないために、触れた。終点は車庫だ。終わりはそこではない。譲ることは、奪うことだと知った上で、もう一周を求める。
バスは、夜の街を回る。街灯はひとつ飛ばしで光り、次の夜には等間隔に戻るだろう。戻らないかもしれない。それでも路線は続く。終バスは、似た匂いの人を連れてくる。眠い人、待つ人、戻れない人。そして、譲る人。
唯は鈴の音を背に受けながら、窓の外に流れる黒い街を見た。ガラスに映る自分の顔は、少しだけ違って見える。違って見えることは、違うことではない。違うかもしれないが、同じかもしれない。世界はいつも、その曖昧さでできている。
降車ベルは止み、鈴は鳴らず、呼吸だけが次の停留所を待っていた。




