6."11 SAMURAIs" -d1 『対話』
-d1『対話』
居残りを決行した次の日。今日は金曜日である。
来週の月曜日でとうとう期末テスト二週間前だ。
結局昨日は、近くのドーナツショップで九時近くまでこってり絞られた。いくら飲み放題のコーヒーをかったからといっても、ドーナツも買わずに居座りすぎたと思う。
しかもコーヒーのカフェインが効いてしまい、昨夜よく眠れなかったのだ。
数学と寝不足と積もった気苦労で、俺はげんなりしていた。あー帰りたい。帰って寝たい。マジ帰りたい。
「ねえ中澤、どうしたの。今日ずっと目が死んでるけど。」
昼休みを告げるチャイムが鳴って、末永が声をかけてきた。
「え、マジで……目、死んでる?」
「うん、凄く。というか、一時間ずっと墨摺ってたでしょ。」
「……あ、…あー…。」
末永に言われて、俺はだらだらと墨を刷り続けていたことに気がついた。元は水だったはずのそれは、一時間の成果か、ギョッとするほど真っ黒になっている。
「……相当キてるね。まぁ、あの二人よりマシかもしれないけど」
末永がチラッと見た方向に目をやると、教室の一番後ろの机で矢吹と篠原が思い思いの体勢で爆睡していた。篠原は腕組みして顔を下に向けているからまだ良いものの、矢吹なんて首から上が天井を向いたまま口をあけて寝ている。
「…とにかく、何か書いて提出しちゃいなよ。」
「あー…今日の課題、なんだっけ」
「好きな四字熟語。」
「……なる程。うーん……。」
……驚くほどに何も思いつかなかった。
だが、もう時間が時間だったので、俺は素早く筆を持って紙の上を走らせる。
【睡眠不足】
「……中澤、直接的過ぎるよ…」
「………思いつかないから仕方ない…」
「睡眠不足なわりに墨が真っ黒なのが、なんともアンバランスだよね…」
「ギャップを狙ってみたんだよ、ギャップ。」
適当なことを言って、要らない半紙を硯に突っ込む。真っ黒な墨が紙に吸われていった。
末永と連れ立って課題を教卓に提出した後、そのまま習字道具を洗うために教室から出た。
「ところでさ、中澤。もしかして、最近また何か噂になるようなことしてる?」
手洗い場で硯を洗っている最中、急に末永が言った。
「…え」
俺は驚いて隣を見る。
末永はいつもと変わらぬまま、雑巾をたたんでいた。
「いや、どうなのかと思って」
「……何か、陰で色々言われてたりするのか…?」
「うーん、当たらずとも遠からず、ってとこかな」
心のどこかで否定の言葉を期待しただけに、彼のこの言葉は少し堪えた。やっぱり陰の噂、あるのか…。
「マジで…」
「まぁね。けど、一時期みたいに酷くないから安心して。」
「俺としては、そういう話があるってだけで心臓に負担が…」
「ははは!だろうね」
末永は少し笑ったが、すぐに真剣な表情になる。
「ま、俺も詳しくは知らないんだけど…。最近はなかなか趣向が違う噂が出回ってるんだよ。」
「…趣向が違う?」
「そう。今までは“中澤君と原野さんが付き合ってるらしい”って類の噂ばっかりだったんだけど、最近“原野さんと中澤が付き合ってる訳ない”って雰囲気の噂ばっかり聞くようになってね。」
……ん?
俺はその言葉に拍子抜けした。
「………いや、てか、その通りなんだけど」
「でしょ?」
末永も首をかしげて、不思議そうな表情をしている。
「だから俺も今までみたいに訂正とかはしてないんだけど…。急にこういう感じになったから、中澤が何かしたのかと思ってた。」
「……いや……心当たりないな。」
てっきり“付き合ってる”という方向の噂が加速しているとばかり想像していたが。というか、最近の行動はもっぱら、それを加速させるのに十分なものばかりだと思っていた。
なのに、この180度違う噂。
別にこちらに害があるわけではないが、何だかしっくりこないものがあった。
確かに、付き合っていないのだから、その通りであるし、何も間違っていないのだが…。
「ふーん、そっか。」
末永も腑に落ちないのか、少し難しい顔をしていたが、
「けど良かったね。これで要らぬ誤解は避けられるんじゃない?」
ちょっと微笑んで、俺にこう言った。
「だな……まあ、俺としては、陰で噂されなくなるのが理想なんだけど。」
「んー…、それは諦めた方がいいんじゃない?」
「え、なっ、」
「だって中澤、目立つからね。髪を染め直した時なんて、ほんと凄かったよ。覚えあるでしょ?」
末永が笑う。俺は原野さんに髪を黒染めされた次の日の学校を思い出した。思わず眉間に皺、である。
「………あれは不可抗力だ。」
「もー、あれは真っ黒だったよね!」
末永が声をあげて笑う。
……分かってたよ、真っ黒なことは……。
そんな渋い思いをする俺をよそに末永は可笑しそうにしているので、俺は苦笑いするしかなかった。
ひとしきり思い出し笑いをした末永は、洗った硯を雑巾で拭きながら言う。
「あー、けど最近はその噂話も落ち着いてきてるよ。まあどっちにしろ、中澤はもっとスルースキルを身につけるべきだね。」
「それが出来たら苦労しない」
「それか、噂される事を楽しむか。」
「楽しむとか、無理だよ俺には……」
「だろうねー。なら、もっと気に留めないって方向性で行けばいいんじゃない?」
「……だな…」
習字道具をひとしきり洗い終えた俺達は、教室に戻ることにした。
少し話しすぎたかもしれない。
俺はひとしきりの会話を思い出して、ふと思ったことを口にした。
「…てか、お前って凄いよな。」
「ん…なにが?」
末永が不思議そうな顔をする。俺は続けた。
「どうしてそんなに校内の噂に精通してるの。矢吹でも大概凄いと思うんだけど、そういうのってどこで仕入れてくるんだ?」
「あー…」
末永は指先で頬をかくと、相変わらずの飄々とした様子で言った。
「俺の場合ね、ほら、美術部だから」
……そうだった。俺は痛く納得した。すっかり忘れていたが、末永は美術部に所属していたのだ。圧倒的女子率を誇る美術部の黒一点、それが末永なのである。
『あいつ、男の割にちっちゃいし可愛いとかって、女子部員からちょー可愛がられてるらしいぜー!!かーっ、うらやましー!!!』と、かつて聞いた矢吹の台詞が脳内リピートされた。
「………なるほどな。」
俺は小さく相槌をうつ。
手洗い場から教室まで、そこまで距離はない。あの二人もそろそろ目を覚ましている頃だろうか。あの二人がつるんで、どうして起こしてくれなかったのだと詰ってくる声が聞こえるようだ。
「末永」
俺は教室の手前で彼に呼び掛けた。
「んー?」
「ありがとうな。」
「…え、なに?急に。」
「いつも噂を訂正したりとかさ、してくれてるだろ。」
急な俺の台詞に驚いたように末永は一瞬目を見開いたが、軽く笑って続ける。
「別に大したことしてないけどね。」
「そうはいうけどさ」
「けど、中澤」
末永は立ち止ると
「俺、そうやって言ってもらえて、ちょっと嬉しいわ。」
珍しくにへっと目を細めて笑って、ひらひらと手を振りながら先に教室の中へ消えていった。