5."Separate September" -a4 『変容』
-a4『変容』
…あ、矢吹に釘をさすのを忘れていた。
一番肝心なことを……。
仕方ない、今日メールでもするか。
俺は、教室を出て急ぎ足で歩いていた。
思わぬところで時間を食ってしまった。
谷口さんにも今回の件について、フォローしておこうと思っていたのに。
特に何か言いたいことがあるわけではなかったが、なんとなく、そうしないといけない気がしていたのだ。
だが、今となってはそんな時間はない。
計画が丸つぶれである。
それはおろか、これはもう急がないと師匠との約束に間に合わないかも知れなかった。
早くしないと……。
そう思ってより足を速める。
だが。もう少しで階段というところで突然、視界にふわふわしたものが入ってきた。
俺は慌てて急ブレーキをかける。
もう少しで完全にぶつかるところだった。
「す…すみません!!」
俺は思わず謝る。
相手はびっくりしたように目をまん丸にして、その場に立ちすくんでいた。
…その姿は。
「え…まことくん?」
谷口さんだった。
いきなりのことに頭の回転が完全にストップした。
「え!……あ…」
口から言葉ともいえない言葉が漏れる。
さっきまで話さなければいけないと思っていたはずなのに、何を話したらいいかわからない。
気まずい沈黙がながれる。谷口さんもその空気を感じたのか、持っていたプリントをぎゅうっと抱きしめ、俺からすっと視線を逸らした。
これは……これは、この空気を何とかしないといけない。
俺は、この居心地の悪い雰囲気をどうにかして打破しようと、考えも無しに口を開いた。
「あ…残ってたんだ?」
俺の言葉に、谷口さんはぱっと顔をあげ「委員会だったの。」と答えた。
「あ、そ…うだったんだ。」
そして、沈黙。
…………。
馬鹿だろ、俺。
いきなり会話を終わらせてどうする。
谷口さんが委員会に行っていたことぐらい彼女を見ればすぐに分かるし、それからでも話の膨らませようはいくらでもあるのに。
だが今さらどうしようもなくて、俺は何とか新しい話題を探す。探す。
泳ぐ目線の少し下で、なんだか不安そうな、複雑な表情をしている彼女。
さらにしまったと思い、とにかく何かを話そうとしたが、まったく言葉が出てこなかった。
さらなる沈黙が走る。
俺はもはや、どうしようもなくなる。
やばい、やばい、どうすれば……。
ここで。この空気を破ったのは、谷口さんだった。
「…あ、文化委員の補佐役、まことくんにおしつけちゃう形になっちゃって、ごめんね。」
彼女はそういうと、俺にぺこりと頭をさげた。
俺は慌てる。
彼女に謝られるなんて思ってもいなかった。
まるで条件反射するように、否定の言葉を並べる。
「いや…谷口さんの、せい、じゃないよ…!それに…ほら!俺、暇だし…!」
言葉に詰まりながらも必死に弁解する。
“嫌々引き受けた”なんて思われたくなった。
あくまでああいう形になってしまっただけで、やりたいかもとか思っていたわけだし、こういう結果になったのもそもそもは矢吹のせいなんだから、押しつけたなんてそんな、全然谷口さんは思う必要もないわけで……。
相変わらず思っていることを言葉にできず、しどろもどろになる。
だが彼女はそんな俺を見て、ふっと笑った。
こわばった表情が緩む。
そんな何気ない仕草に、俺の心臓はとくんと跳ねる。
「よかった。まことくん優しいから。いやなのに断れなかったんだとおもって…。謝らないとっておもってたの。」
“いやなのに断れない”、か。
俺は、まだ谷口さんが“俺が彼女を避けている”なんて思っているのかと思うと、少し悲しくなった。この前やっと、“避けてなんかいない”と弁解出来たが、今まで話さなかった時間が長かった為、俺たちの間には誤解が何重にも絡まって、“友達以下”からのスタートになってしまっていた。
俺が長い間、彼女に誤解させるような行動をとっていたから。
…もしかしたら、今日は自分の駄目さに改めて気づく日なのかもしれない。
俺は沈んでいく気持ちをごまかすように、返事をする。
「嫌じゃないよ。…びっくりしたけど…。」
だが、そんな俺の誤魔化し混じりの言葉に。
そんなくぐもった言葉に、谷口さんは、満面の笑顔ではにかんだ。
「…よかった!」
明るくてまっすぐな微笑みに、俺は見入る。
俺はふと昔を思い出した。
“のんちゃん”と一緒に遊んだ日々。
その微笑みは、幼いとき、彼女がよく自分に向けてくれていた表情だった。
もしかしたら、彼女とのここ何年間もの溝が少し縮まってきているのかもしれない。
誤解が解けて、彼女も昔のような関係に戻ることを望んでくれているのかもしれない。
そう思うと、さっきの沈んだ気持ちがすっと消えていくのが分かった。
つくづく、俺は谷口さんに振り回されてしまっていると感じる。
彼女の一つ一つの何気ない言葉や行動が、俺の考え方や気分を変える。
さっきまで悩みの種だった矢吹の『余計なお世話』が、今では『ナイスサポート』という言葉に変換されていた。
矢吹に釘をさすのは、また今度でも……いいのかもしれない。
じっと彼女を見ながらそんなことを考えていると、その表情がふと表情を変わった。
まるで、小さい女の子が内緒話するようないたずらっぽい微笑みで、彼女がささやく。
「わたしね。ほんとは、まことくんが文化委員の補佐役をしてくれたらいいなっておもってたの。」
彼女のいきなりの言葉に、俺の思考は止まる。
「まことくんとだったら、安心してできるし、たのしいなっておもって…」
そう言いまたはにかんで、少し俯く谷口さん。
もう、俺はショート寸前だった。
体温が顔に集まっていくのが分かる。
耳が焼けるようにあつかった。
応えないと。俺も、谷口さんとだったら嬉しいって…!
頭では分かっているが、やはり、言葉には出来ない。
谷口さんは固まっている俺を見て、はっと目を見開くと、焦ったように口を開いた。
「え、あ、ごめんね…!なんか困るようなこといっちゃって…!」
そして、彼女はしゅんと、俯いてしまった。
俺は、つっかえてでなかった声を振り絞った。
「俺…頑張るよ、文化委員の、補佐役…」
彼女の言葉には何一つ応えられていないが、これが今の自分の精一杯だった。
そんな俺に、彼女は視線だけをこちらにあげて、ちょっと首をかしげて微笑んだ。
その後。
彼女は、文化委員補佐役の仕事を教えてくれた。
俺には、一生懸命話してくれている彼女の声は入ってきていなかった。
ただ、彼女を見てぼーっと考えていた。
夏祭りの日。俺の気持ちをもし伝えたら、どうなっていたのだろうか。
彼女は受け入れてくれたのだろうか?
…もしかしたら彼女は、俺が言いかけた言葉を実は分かっているのではないだろうか。
俺の思考は、ただ一つのことをぐるぐる、ぐるぐると回る。
もし……あの時……もしかしたら彼女は……谷口さんは……分かっていて……俺は……
……何故あの時、師匠の言葉が浮かんできたんだろう。
師匠。
そのワードで、頭の中のぐるぐるが急にストップした。
…あれ?何か大事なことを忘れていないか?
俺は、時計を見る。
時刻は4時45分。
遅刻厳禁。
5時集合。
遅刻厳禁。
修業。
遅刻厳禁。
…………あああああああーーーーーーー!!!!!
一気に青ざめた。
やばいやばいやばい。
冷や汗が一気に噴き出す。
息が浅くなる。
完全に忘れていた…!!
肝心の、一番の優先事項だったはずの師匠との修業は、一連のやり取りのうちにすっかり忘却の彼方へと吹っ飛んでしまっていたのだ。
嗚呼、今から向かっても確実に遅刻だ…。
様子が一気に変わった俺に気づき、谷口さんが「まことくん?」と顔を覗き込んできた。
いつもなら、どうしようもなくなるようなそんな谷口さんの仕草でさえ、今の俺には無意味であった。
普段とは違う意味で一瞬、くらっと眩暈がして。
俺は「ごめん…!ちょっと、あれだから、また、教えて…!」と曖昧な言葉で告げ、鞄をかかえて前につんのめるような格好で、その場から走り去った。
もしかしたら、俺が振り回されているのは谷口さんではなく、師匠かもしれない。