9."Con-Two-Last" -b1 『危殆』
-b1 『危殆』
「ねぇまことくん、帰ろ!」
聞きなれた高い声が聞こえる。
俺は鞄の中を整理する手を止めて、呼ばれたほうに視線を移した。
そこには小柄な女子生徒の姿があった。
谷口さんが、丸い眼を人懐っこく細めて笑いかけている。
「ごめん、ちょっと待ってくれる?」
「全然いいよ!こちらこそごめんね、付き合わせちゃって。」
「俺なら大丈夫。ショッピングモールに行くんだっけ?」
「うん、ちょっと大荷物になりそうだから…。ついてきてくれて、ほんとに助かる!」
谷口さんは目元をほころばせる。
俺はその視線を感じながら、帰り支度の手を少しだけ早める。
「なんだったっけ、おばさんの誕生日?」
「そうなの。お父さんったら、今年は一段とパーティの準備を張り切っちゃって!」
「いいな、楽しそうだね」
「そうかな?」
「そう思うよ。おばさんに、おめでとうございますって伝えて。」
「うん、伝えとく!ありがとう!」
その時、俺のポケットの中で携帯が鳴った。
電話がかかってきている。
「あー、ごめん、少し待たせるかもしれない。」
「いいよいいよ!じゃあ、私は先に下駄箱に行ってるね。」
また後で。
そう言った谷口さんは柔らかく微笑んで、教室から出て行った。
その小柄な後ろ姿が見えなくなることを確認する。
俺は、椅子の背もたれに大きく背中を預けた。
電話には、でない。コールが鳴りやむまで、その振動を手の中で殺すように、握り締めた。
ようやくバイブレーションが止まる。
俺は目をつむる。
すっと意識は深みに落ちていき、周りのクラスメイトや喧騒が遠く感じられた。
もう、一週間だ。
原野さんが『間違えた』と言った、あの日から。
あの後、原野さんは俺を押しのけるように自転車にまたがり、駆けていった。
それは、その場の空気も思いも引きちぎって、何もかも捨てていくとでもいうような、明確な拒絶に満ちていた。
ひとり道端に取り残されて、俺は、反芻した。
契約が終わることの意味を。そして、その後の毎日を。
空いてしまった左側から押し寄せる冷たさが痛みとなって、胸がじりじりと侵される。
ああ、今日ってこんなに寒かったっけ。原野さんが居なくなってようやく、それに気付いた。
その後、以前のように連絡が途絶えていたら、まだ手の施しようがあったのかもしれない。
だがその日の夜、原野さんからメールが届いた。
『谷口さんへの告白がうまくいくよう、全力でサポートします。
私があなたに関わるのは、これで最後です。』
誤解のしようもないくらい明確な表現と、俺と原野さんの関係性の前提を再確認させる言葉選び。
それに一瞬眩暈を覚えながらも、俺は食い下がった。
『どうしても、その日じゃないといけないんでしょうか。』
『もともとの期限は、冬の約束だったでしょう?』
『せめてもう少し、延長できないでしょうか。』
『あの時も、それは屁理屈だって言ったでしょう?』
『ですけど、12月はそれで話がまとまったじゃないですか。』
『もう、時期は満ちたの。条件も十分そろってる。バレンタインデーだったら、告白は必ずうまくいくわ。谷口さんの気持ちが動かない間に決めてしまわないといけないでしょう?』
『うまくいくなんて保障、どこにもないんじゃないでしょうか。』
『大丈夫よ、あたしには解る。絶対にうまくいく。あたしがバックアップするから。貴方は、ただ流れに身を任せたらいいのよ。今までもそうだったでしょう?』
最後の抵抗もねじ伏せられて、これでいよいよ俺は、取りつく島もなくなったのである。
それ以来、俺と原野さんが必要以上に会うことはなくなった。
放課後の状況確認の連絡と、この前の土曜日に五月によく行った神社の公園で顔を合わせたくらい。
それに反比例するように、放課後を谷口さんと共にすることが増えていった。
雨が降った日、用事のある日、何もない日。いろいろなタイミングで、谷口さんは俺を帰り道に誘った。
その不自然なくらい自然なお誘いに、俺は特に断る理由を見つけられないままだった。
このことを原野さんに伝えたら、きっと喜ぶのだろう。
そう思うと、どうしても伝えたくなかった。
土曜日に公園で会った時も、俺はこの話題に努めて触れないようにした。
そういえば夏の日のいつか、”嘘をつかない”っていう契約内容が追加された気もしたが、言わないことは嘘をつくことではない。
きっと、こういうところが理屈っぽくて、原野さんに屁理屈言いと言われる原因なのだろう。
直接顔を合わせても、いつも同じ言葉遊びのようなやり取りを繰り返すだけ。
放課後に気まぐれにかかってくる電話も、説得が相手に届かない苛立ちで、いつしか待ち望めなくなった。
期限が決まった一月末日から、もう一週間。
定められた契約期日まで、あと一週間。
その事実を改めて自覚して、思わず身震いした。焦燥感が背中を駆け上がってくる。
何をしているんだろう、俺は。
どうしてこうなってしまったんだろう。
俺はどうしたらいいのだろう。
原野さんの言うように、流れに身を任せるしかないのだろうか?
胸の疼きに耐えかねて、歯の奥を噛み締める。
強く握った手の中でまた携帯が震えて、俺は意識を引き戻された。
画面には、原野唯陽の文字。
知らない振りはできないらしい。俺は短く息を吐いて、通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
「……はい、もしもし。」
「もしもし、原野です。さっきはどうしたの、忙しかった?」
左耳から、原野さんの声が聞こえてくる。
俺は深く息を吸う。
「いえ、大丈夫です。」
「そう、それならいいんだけど。」
原野さんは、なぜだか歯切れが悪いままに、続ける。
「谷口さんとのことなんだけど。」
「はい。」
「…最近一緒に帰ってる、みたいね。」
「は?」
俺は椅子から落ちそうになった。深い場所まで落ちてまだぼんやりしていた思考が、一気に覚醒した。
どうして原野さんが、それを知っているのか。
「偶然見かけたわ。昨日。」
俺の言葉にならない声が聞こえたかのように、原野さんが続ける。
「それは」
「凄いわね貴方、あたしが何もしなくても自分でできるんじゃない。」
「それは、そうじゃなくて、誘われて」
俺の焦燥とは対照的に、原野さんの声は落ち着いていた。静かで、乱れない。
「やっぱり、あたしの役目はもうそろそろ終りね。」
静かな声で、そう言った。
俺は必死に、その発想を否定する方法を考える。
「いや、ちょっとまってください」
「大丈夫、目的を達するまでは役目を放棄したりしないわ。契約、だもの。」
原野さんの静かな声は乱れない。だが、トーンとは裏腹に、その言葉はどこか熱を帯びていた。
「貴方は、谷口さんとうまくやっていけるわ。それじゃあ。」
そういって、一方的に電話は切られた。
俺はいつの間にか、耳に当てた携帯を両手で握り締めていた。
携帯を閉じ、大きく息を吐く。
冷静になれ、落ち着け。声を荒げなかっただけ、ましだ。クラスメイトたちにも、会話の内容は理解できていないはず。
俺は天を仰いだ。
隠しておきたかったことが露呈してしまった。偶然ばれるという、最悪の形で。
これを弁解できるような理由付けはできるのだろうか。
それを説明できる機会は、俺に与えられるのだろうか?
そもそも、谷口さんの誘いを断っていれば良かったのだろうか。
だが、あのさりげなさを潜り抜ける方法を、俺は知らなかった。
どうにかできたのだろうか。
どうにかすべきだったのだろうか。
俺は、どうしたらよかったんだろうか?
チャイムが鳴った。
ハッとして時計を見ると、谷口さんが教室を出てから、もう15分が経っていた。
だめだ、これ以上待たせられない。俺は慌てて席を立つ。
鞄を掴んで後ろを振り返ると、矢吹が俺を見ていた。
目が合う。
それは、いつもの無遠慮な矢吹からは想像もつかないような、疑問と困惑が混ざった表情だった。
自分の視線がクラス中を彷徨うのが分かる。
末永は教室の窓際の自席で、こちらをしかと見つめている。
篠原は教卓の近くで、眉尻を下げて俺を見ていた。
ああ、見ている。
アイツらは気付いているのだ、俺の様子がおかしいことに。
「ま、また明日な、矢吹!」
その視線が耐えられなくて、矢吹に声をかけた。語尾が上擦る。
「…あ、おう!」
矢吹の返事も、素っ頓狂に音が外れていた。
廊下に飛び出す。
逃げ出したかった。
アイツらは気付いている。気付いて、心配してくれているのだ、俺を。
どうにかしないといけない。
大丈夫だと、言わねばならない。
だが、この状況で俺は、どれだけのことをアイツらに説明できるのだ?
様々な要素が網目のように絡まって、俺を追い込んでくる。
どうしたらよかったのか、わからない。
大股で流れに逆らって歩く俺は、周囲の視線にいさめられる。
逆らうなとでも言わんばかりに。
ああ、このままでは、何もできぬまま飲み込まれてしまいそうだ。