8."Be back where 1 started" -c2 『写実』
-c2『写実』
ノートを写し終えた篠原は、そのままクラブの集まりへと消えていった。空いた席に末永が座る。
「もう部活は良いのか?」
「うん、スケッチブックをとりに行ってただけだからね」
末永はスケッチブックを机の上に放り投げた。
俺は篠原から返ってきた数学のノートをなんとなくめくっていた。今日はすぐ帰るつもりだったが、別に急ぎの用事はない。このまま末永と話すのもいいかもしれない。
ふと気になって、末永のスケッチブックを手に取った。
「なあ、これ見ていいか?」
いつも伏し目がちな末永が、少し目を開く。
「興味あるの?」
「うん、どんなものを描いてるのかなって。」
「構わないけど…」
了解を得て、手元のスケッチブックを開いた。一般的なA3サイズで、リングで閉じられたものだ。一枚目を開くと、石膏像のデッサンが描かれていた。二枚目は花瓶のデッサン。三枚目は筆箱。それ以降も、何ページにもわたって丁寧なデッサンは続いていた。
「これは、すごい。」
思わず感嘆の声が漏れる。そのデッサンの精巧さといったら、まるで世界をモノクロにして切り取ったかのようだった。鉛筆の線の濃淡が、ここまで物質の質感を表現できるとは知らなかった。
「デッサンの練習帳だよ。4月から描いてるんだ。」
「こういうのは初めて見たけど、末永って、やっぱり絵うまいんだな。」
「そりゃ、スケッチブック一冊丸々をデッサンに費やしたからね。少しはうまくなってないと切ないよ。」
末永が自嘲気味に笑う。だが、俺は違うと思った。
「技術もそうだろうけど、そういうことじゃなくて、絵からリアリティを感じる気がする。それが末永らしいというか、なんというか。とにかく、凄いと思う。」
「ん…」
末永は相槌もそこそこに沈黙する。伏し目の奥の瞳が、俺をじっと見ている。観察するような、分析するような、そんな目だ。
会話が続きそうにないので、再び手元のスケッチブックに目線を落とした。数枚めくったところに、手のデッサンがあった。複雑に指を組んだ左右の手は、今にもそれを解いて動き出しそうなほど写実的だ。
いつの間にかデッサンに見入っていた。すると、
「中澤、本当に変わったよね。4月に比べてさ」
と声がかかった。思いがけない台詞に戸惑う。
「え、そうか?」何をいきなり?
「俺は、観察には自信があるからね。デッサンの対象の観察もそうだけど、人間の観察も得意。」
末永が笑った。楽しそうに続ける。
「中澤は主体的になったよね。前はもっと受動的だった気がする。いろんなことに対して積極的になったよ。少なくとも前は、今みたいに、人の内面に立ち入るような行動をとらなかったでしょ。前に篠原が言ってたけど、一線を引いているような立ち振る舞いが多くて、それがどこなく壁になってたから。」
「そんなに、言うほど」末永の発言に困惑していた。「変わったのかな、俺は」
「うん。そう思うよ。」
「全然自覚がないけど…」
「そんなもんでしょ、変化なんて。自分じゃなかなか気が付かないって。」
末永が悪戯っぽく笑う。
俺は変わったのだろうか。末永は、俺が主体的になったといった。それは今まで、俺が持ちえなかったものだ。得たいと願いながら得られなかったもの。それを望んで、憧れたから、原野さんと関わることになった。
そうやって過ごしたこの数か月、俺がそれを手に入れたというのなら、それは間違いなく、原野唯陽のおかげだ。それ以外には考えられない。
そう思うと、急に気恥ずかしくなった。
「じゃ、じゃあ、末永はどうなんだ?」
無理矢理、話題を変えることにした。にやにや笑っていた末永の顔から、一気に表情が抜ける。
「俺?」
「そう、末永は、高校に入って変わったのか?」
「俺ねえ…まあ、さっきも言ったけど、自分の変化って分かりづらいから、なんとも」
「まあそう言わずに、考えてみろよ!」
末永が怪訝そうな顔をする。だが、俺は負けない。主導権を握り続けなくてはいけない。
「ほら、新しい友達とかできたら、変わるだろう?」
「友達…まあ、確かにそうだね」
「だろ?ほら、そうだ、篠原とか!」
良いことを思いついた。さっき篠原に聞いた、あの話だ。
「末永は篠原と仲良くなった時のことって覚えてるか?」
そういうと、末永は一瞬、微妙な表情をした。
「…覚えてるよ。あれは結構、衝撃的だったからね。」
「衝撃的、か。なるほど」俺は篠原の自爆を思い出して笑う。
「中澤も、さっき聞いたんでしょ?」
「うん、ちょっとだけ。」
「そっか」末永は頬をかいて、続ける。「確かに、俺に転機があったとしたあら、間違いなくあそこだろうね。」
「転機?」
「そう。考えてもみてよ。篠原は、クラスの中心になるような派手なタイプ。それに比べて俺だ。特に目立たない文化系男子。普通に考えて、接点はほぼない。」
末永は言い切る。その言葉の鋭さに、なぜか俺がドギマギさせられる。
「まあ、確かに意外な取り合わせだとは思ったけど」
「間違いないよ。消しゴムのやり取りも、何事かと思った。ここで反応をしくじったら、俺の安寧な高校生活が脅かされるかもしれないとまで、思った。」
「大袈裟だろ!」
「いや、それほどあのやり取りは衝撃だった。」
末永は真顔だ。だが。
「でもまぁ、あの時篠原と話して無かったら仲良くなってなかっただろうし、結果的には良かったんだけどね。」
口元をゆるめて微笑む。今までの言葉との雰囲気の違いに少し驚いた。懐かしむような、暖かい記憶を扱うような口調。
俺にはそれが、いつも辛口の末永がちらっと見せた本音のような気がした。
とりとめのない話をしているうち、気が付いたら下校時刻になっていた。篠原が一学期末テストでしでかした失敗の話で盛り上がっていた俺たちは、勢いで篠原にメールを入れることにする。
『まだ教室にいるから、ダッシュで集合』
篠原はすぐ教室に来た。肩で息をしていたので、本当にダッシュしてきたのかもしれない。
3人で教室を出て、岐路に着く。正門を出て駅に向かう俺は、二人とは逆方向だ。
「じゃあな、中澤!」
「また明日ね、中澤。」
「ああ!」
楽しそうに話しながら帰る二人の背中を見ながら、今日の放課後のことを思いやった。それこそ最初は接点もなかった2人、篠原と末永。初めて接点を持った9月から数か月で、俺は二人のことを色々と知った。
友達になれて良かったなとしみじみ思いながら、俺は坂道を下る。