8."Be back where 1 started" -c1 『文具』
-c1『文具』
新学期が始まって1週間が経った。正月気分はある程度抜けるが、学校に対するモチベーションが著しく低下してくる、そんな時期だ。
長い一日の授業が終わり、俺は数学のノートを閉じる。二学期の一件で勉強に対する意識が上がってはいたが、適度に維持するのは難しいものだ。さっきの時間も少し寝てしまった。教室が無駄に暖かいのがいけない。いや、寒くてもいけないけれども。
クラスメイト達は思い思いに片づけを始めている。さて、俺も帰ろうかと鞄を取り出したところで、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、篠原だった。
「中澤お前、ちょっと時間あるか?」
「今から?」言うほど暇ではないが、特に思い当たるほど忙しくもない。「別に、時間ならあるけど。」
「おお!じゃあ、ちょっとさっきのノート写させてくれない?」
篠原はルーズリーフとシャーペンを手に、無人になっていた俺の前の席に座る。
「いいよ。寝てたのか?」
「そりゃそうだろ。むしろ、お前は起きれてたの?」
「まあ、寝たけれども」苦笑いしてうなずいて、しまいかけていたノートを差し出す。幸い、板書はすべてとっていた。
「さんきゅー。こんな室温じゃ、睡眠を促されてるのと一緒だからな。」篠原がノートを受け取り肩をすくめた。「全く、これだから冬は難儀だよな。寒かったら眠くならないってのに!」
じゃあ夏ならいいのか。だが、この一年間、数学の時間中にまともに起きている篠原を見た記憶はない。
篠原がルーズリーフに今日の内容を写し始める。今日の内容の最初からだ。授業冒頭から寝たらしい。
「ノートなら、末永に借りた方が良いんじゃないのか?俺よりしっかり聞いてるだろ。」
ささやかな疑問を口にする。
「最もなんだけど、ほら、末永は奥の手なんだよ」
「奥の手?」
「そう、困ったときのスエ頼みだ。」
篠原は力強くうなずく。今まさに、この世の真理を口にしたかのような重々しさだ。
「末永様には、テスト前にお世話になる予定なんだよ。こんな冒頭部分で残機を使うわけにはいかない。」
「神様仏様末永様、か。」俺は笑う。「ちゃんとお布施でも用意しろよ」
「あー、ありがたやーありがたやー」
篠原はsinθ、cosθ、tanθとノートに書き込んでいる。俺は途中になっていた帰宅準備を再開した。教室の喧騒はすっかり引いて、人もまばらになっている。時計を見ると、もうクラブ活動が始まる時間だった。
「篠原、部活はいいのか?もう3時30分だけど」
「あーいいのいいの。今日は4時から会議だ」篠原はシャーペンをくるくる回し始めた。早くも飽きたらしい。「副キャプの雑用だよ。」
「そうか、結局副キャプテンになったんだっけ」
「そう!押し付けられた!」
「まあ、篠原はうまくやれそうだけど」
「誰でもできるよ、こんなもん。ただの雑用係り。なのに、赤点4つ取ったら部活停止とか顧問に言われてさぁ。だから、俺は中澤にノートを借りて、末永にお布施を用意する羽目になってる。」
面倒事ばかりだ!と篠原が嘆く。やるべきことを思い出したかのように、ノートの文字をルーズリーフに写し取る作業に戻った。篠原の鉛筆字は、いつものようにふにゃふにゃしている。
篠原は、体育こそセンス抜群だが、勉学のほうはイマイチぱっとしない。というか、本人から聞いた話によると、全教科合計で赤点の科目の方が多いらしい。顧問の先生もそんな篠原を心配したのだろうか。俺も人のことは言えなかったが、篠原の勉強のモチベーションはそれほど低い。
熱血漢で、面倒見が良くて、周りに頼られる。感情に正直に突っ走っていく、計画性とは無縁のスポーツマン。それが、この数か月で俺が見てきた篠原だ。
篠原は机に突っ伏すようにルーズリーフに向かっていた。ここから見ていると寝ているように見える。だが、ちゃんと活動していた。何かを探すように机をきょろきょろと見渡し始める。
「何探してるんだ?」
「ミスった。俺、消しゴム持ってこなかったっけ?」
「良く覚えてないけど…俺の使うか?」
「おお!さんきゅー!」
鞄から筆箱を出して、消しゴムを机に置いた。篠原は嬉しそうに「ありがたいありがたい」と言った。消しゴムを手に取り、形の悪い三角形を消し始める。
「おお、良い消しゴムをつかってますなー」
「あはは、一般的なやつだけどなぁ」
「いやいやー、このメーカーの消しゴムは総じて良いものなんだよ、中澤くん。」
「そうか?」
「そう。俺にとって思い出深いんだよ。」
「消しゴムが?」
「消しゴムが、だ。なんせ、俺とあっきーが仲良くなるきっかけになったやつだからな。」
篠原は得意そうに、手の中で消しゴムをコロコロ転がす。
「聞くか?マル秘エピソードだぞ。」
スポーツマンの篠原に対して、末永。彼は篠原と全く逆で、成績は超優秀だが、運動が全く駄目である。その運動嫌いは筋金入りで、出席回数を計算して、単位が取れる程度に体育の授業をサボっているほどだ。こちらは、冷静に状況を分析し無駄なく動く、参謀タイプといえる。
彼らは、俺が親しくなるよりずっと前から仲が良かった記憶があった。二人でワンセット。何の疑問もなくそう思っていたが、こうやって各々の性格が分かってきた今では、そのことを逆に不思議に感じるようになっていた。『どうして篠原と末永は仲良くなったのか』。
「是非聞きたい。」俺は身を乗り出した。
「おう、本邦初公開だ」篠原はにやにや笑っている。
「俺と末永は出席番号が前後なんだけど、入学して最初の授業で、俺、筆記用具を忘れたんだよ。」
「最初って…」
「我ながらやる気ねーよなー。まあ、シャーペンは予備があったんだけど、消しゴムがなくって、すごく困ったわけだ。入学したてで知り合いもいない。どうしたもんかと困った揚句、後ろの席の奴に借りることを思いついた。」
「末永に、か。」
「そう。で、勇気出して頼んでみたら、末永は自分の使う分とは別の消しゴムを持ってたらしくて、俺に一個丸々貸してくれたよ」
「さすが末永だな。」
「そうだよなー。あいつ、淡々と筆箱から消しゴムを取り出して、無表情で差し出してきたよ。」
表情のない顔で篠原に消しゴムを差し出す末永が、容易に想像できた。初対面でそれに遭遇することを思うと、なかなかキツイ。「無表情は怖いな」
「そうなんだよ!だから、俺は焦ったんだ。よく考えてみたら、いきなり話しかけてきた初対面の奴の第一声が、『消しゴム貸してくれ』になるわけだろ。俺、自分の名前を名乗りもしてねーって。これはいくらなんでも失礼だったか!ってな、思ったわけ。」
篠原はその時のことを思い出したのか、肩をすくめて縮こまっている。やはり、末永の無表情はよほど威力があったらしい。
「だから、消しゴム受け取って、言ったんだよ。『俺は篠原って言うんだけど、これは、とても良い消しゴムですなあ』って」
俺は思わずふき出した。「なんだそれ!」
「だよなあ。なんであんなこと言ったんだろうなあ。末永もぽかんとしてたよ。」
篠原は困ったように笑っている。
「で、結局、末永は『消しゴムに良いも悪いもあるの?』って言った。」
「まあ、確かにな。俺もさっき思ったよ」
「けど、もう後には引けないだろ?だから『俺にはそう見える!』って言い張った。」
「ごり押しだな!」
「そしたらな、あいつ、『文房具は好きだけど、消しゴムを褒められる日が来るなんて思わなかったよ』って。」
篠原はその時を思い出したのか、可笑しそうに笑っていた。
「それがきっかけで、末永と仲良くなったんだよ。消しゴムさまさまだよな、ほんと。」
篠原はそれから、たっぷり時間をかけてノートを写した。もうすぐ4時になろうかという時、人気のなくなった教室の扉があいて、末永が入ってきた。
「あれ、二人とも、何してるの?」
美術室に行っていたのだろうか、手にスケッチブックを持っている。
俺たちは顔を見合わせた。思わずにやりとする。
「末永が、文房具にこだわってる話をね」
「めっちゃ良い消しゴム使ってるんだって、中澤に教えてたんだ。な、あっきー!」
末永は一瞬眉を寄せて、口をもごもごさせた。だが、すぐにいつもの飄々とした涼しげなまなざしに戻り、言う。
「だから、あっきーって呼ぶなって、篠原。」