8."Be back where 1 started" -b1 『手袋』
-b1『手袋』
寒い朝だった。冷気が頬を切りつけてくるようで、顔をできる限りマフラーに埋めて歩く。迎春と言ってもやはり1月、正月が明けて少ししか経っていない冬の朝は、だらけきった身体に良く染みた。『もう暖かい炬燵の日々には帰れないのだよ』と嘲笑するかのように風が吹き付ける。
こんな寒い日に学校なんて、憂鬱だ。しかも新学期だなんて。俺は最寄りの岩戸駅から学校に向けて歩いていた。鷹尾高校の生徒ががやがやと、各々好きなことをしゃべりながら登校していく。
のんびりと歩いている俺を、何人もの生徒が追い越していった。幾人かの女子たちが、振り返ってこちらを二度見しては、なにやら囁きあいながら去っていく。その笑い方から品の良さを感じられなくて、少し嫌な気分になった。だが、それだけだった。
手をブルゾンのポケットの中に突っ込んだまま淡々と歩を進める。外に出したままではすぐに指先の感覚がなくなってしまって困る。数日前にこの道を逆走した時、原野さんに「その体勢で歩くのは危ない」と糾弾されたことを思い出した。致し方ない、俺は手袋を持っていないのだ。それに、今までの人生で、この体勢で歩いていても危ない目にあったことはない。
コツコツと坂道を登る。下るときとは違い、登るには大きな意思と努力がいるのだと改めて気づいた。そして自分が、その努力を放棄したがっていることも。
考えてみればもっともだ。この坂の上には鷹尾高校があって、目的地の1-5の教室には、おそらく谷口さんがいる。
「谷口さん」と、誰にも聞こえないようにマフラーの中でつぶやいた。あの日以来、会っていない。
俺はどんな顔をして向き合えばいいのだろうか。「やあ、明けましておめでとう、いい正月だった?」なんて、言えばいいのか。それとも「おはよう、あの時は一人で帰らせてしまって、ほんとに申し訳なかったと思っています」と、謝るべきだろうか。
想像してみたが、どちらも却下した。軽薄な感じが気に入らなかったからだ。
「困ったな」と、もう一度、マフラーの中でつぶやいた。このまま引き返して帰ってしまおうか。俺には、それがとても魅力的な案のように感じられた。どうせ今日は始業式だけで授業もない。炬燵の日々をもう一日延長しても、罰は当たらないはずだ。
「あー、困った」
「何がこまったの?」
谷口さんだった。あまりに鮮やかな不意打ちで、驚いた俺の脚はもつれた。危うくこけそうになる。
「た、谷口さん!」
「ま、まことくん、大丈夫?」
「びっくりしたけど、こけなかったから、大丈夫だよ」
「ごめんね、姿を見つけたから。声をかけてみました」
照れくさそうに微笑む谷口さん。
「そ、それはどうも、ご丁寧に」
しどろもどろに返す。まだ、どうしたらいいのか結論が出ていない。
谷口さんは俺の隣に来ていた。クリスマスイヴに着ていた、ベージュのコート姿だった。
「新学期だね」
「そうだね」
「また授業なんて、嫌になっちゃうね!」
「ほんとに、そうだ」
「この時間帯は、人が多いんだね?」
「うん、嫌になる」
「わたし、いつもはもう少し早いから、知らなかった。」
「今日はいつもより遅いの?」
「ちょっと、ね」
「用事?」
「そんなとこかな」
世間話をしているうちに、下足室に着いていた。
谷口さんはあの日のことを言い出さなかった。俺はそれにひどく安心した。
「あ、そうだ」
思い出したようなそぶりをして、谷口さんが言った。
「わたし、ちょっと家庭科室によって行かないと。」
「何かあるの?」
「まあ、そんなとこかな」
曖昧に笑う谷口さん。
「今度、クラブでマドレーヌを焼くの。」
「そうなんだ」
「本格的なやつね。初めて挑戦するんだけど、なかなか大変そうなの」
「それは凄い」
「そうかな?」
気付いたら、谷口さんがすぐ目の前にいた。また、脚がもつれて転びそうになった。
「そう思う?まことくん」
「そ、そうだね、凄い。とても」
「ほんと?」
「ほ、ほんとに。俺は、食べる専門だから」
「じゃあ、あげるね。」
谷口さんが目の前で立ち止まった。無邪気なように、屈託などないように、実年齢より幼く見える微笑みを俺に向けた。
「マドレーヌ、あげるね。約束!」
谷口さんと別れて、階段を登り、教室を目指す。
これから、ポケットからは手を出して歩くことにしよう。今日はこのせいで、嫌というほど危ない目にあった。
今度、手袋を買いに行かなくては。そうだな、原野さんにでも選んでもらおう。