8."Be back where 1 started" -a3 『兄者』
-a3『兄者』
そのまま長い坂道を下り続け、鷹尾高校を通り過ぎたあたりで脇道に入った。鷹尾市駅方面に移動するときによく利用する道である。田んぼの間を古い家屋が埋めるように立っており、どことなく古めかしい。鷹尾市には、駅前こそ開けているが、まだこういった懐かしい空気を感じる場所が多い。
道中、いつも使わない角を折れて道幅の広い道路に出ると、そこに住江神社の入り口があった。何の前触れもなく、石造りの大きな鳥居が立っている。鳥居の周りに建てられた瓦の乗った塀の奥には針葉樹が隙なく植えられているため、中の様子が良く見えない。閑静な住宅地の中にいきなり現れる鳥居が、そこにそぐわないような奇妙な存在感を示していた。
今日は三が日最後の日だからか、それなりに人の出入りも多い。俺たちはその流れに乗って神社に入った。
神社の敷地は大きく開けている箇所と、お社などの建物が建てられている箇所に分かれていた。陽翔さんはお社の参拝者の列に近づく。
「まずはお参りをしないとね。」
「お賽銭を用意しとかないといけないわ」
「やっぱり5円玉でしょうか」
「芸がないわね」原野さんが口の端で薄く笑う。
「5円は“ご縁”があるんですよ、いいご縁。」俺は負けじと言い返した。
「こういう時は験を担いどくべきです」
「まあ、それは同感だわ」
俺にとっては不可解な返事である。「どうして5円はダメなんです?」
「けちけちしてるからよ。こういう時は派手に行かなきゃ!」
「じゃあ、そういう原野さんはいくら伏せるんですか!」
ムキになる俺に視線を投げるようにして、原野さんはまたにやりと笑った。
「500円。5円が100倍だからね。」
なんとも欲張った話だ。陽翔さんはそんな俺たちのやり取りを聞いて笑いをかみ殺していた。
「ご縁100倍なんて、大人げないねぇユウヒちゃん!」
「そのセリフ、兄にだけは言われたくないわ。」原野さんは不服そうに陽翔さんを睨む。
「大学受験前に5000円投げ入れたのは誰だったかしら」
「心外だなあ、我ながら面白い屁理屈だと思っているのに!」
「屁理屈って…」
解せない、と原野さんは不満げに口を尖らせる。参拝者の列が短くなっていく。
俺は結局50円を投げることにした。原野家理論を採用すると、これで今年の俺の良いご縁は10倍になるはずである。そう思うと、例年より今年の方が良いことが起こりそうな気がするから不思議なものだ。
原野さんが言うから、良いことが起こる気がする。するだけだけれども。
本当は、この世の中はそんな単純な仕組みをしているのかもしれない。
原野さんは理知的な見かけによらず、験を担ぐのが好きらしい。「毎年ここで引くおみくじは本当に良く当たる!」なんて熱っぽく言いながら、人の波に紛れていった。俺と陽翔さんは、開けたスペースに用意された焚火にあたっている。色のない熱気がゆらゆらと向こう側の景色を揺らすのを眺める。
「無事、仲直りできたみたいでよかったよ。」
「そうなるんですかね」
俺は曖昧に笑った。仲直りしたつもりではいるけれど、いまいち自信が持てないでいるからだ。
「根本的解決になったのかどうかは、わかりません」
「根本的、か。それは難しいね」
陽翔さんも困ったように笑う。
「だって、相手がユウヒちゃんだからね。」
「強敵ですか」
「そりゃもう」
「なるほど」
「これ以上ないくらいだよ」
「俺も、ツイてないですね」
「まったくその通りだね!」
陽翔さんは声高に言って、また笑っていた。
「ユウヒちゃんはね、頑固なんだよ、昔から。一回決めたことは梃子でも曲げない、そういう性格なんだ。」
「梃子でもですか」
「金づちを振り下ろしても難しいかもね」
「それは穏やかでないですね…」
「全くその通り。僕も何度も困らされたよ。」
陽翔さんは大袈裟に溜息をつく。これまでの苦労を口から吐き出しているようだ。
「自分の思いと違う意見は、まず聞き入れない。ユウヒちゃんのためを思って言っているのにね。僕の方が多少といえどもいろんな経験をしているんだから、少しは信用してくれてもいいと思うんだけど。」
「なんだか、原野さんらしいですね。」
「ほんと、その点だけは成長しないんだ、ユウヒちゃんは。知識も思考もどんどん聡明になっていくのに、そこだけだ。僕は何度も、そのせいでユウヒちゃんが損して、悲しい思いをして、後悔するところを見てきたのに。」
陽翔さんはどこか寂しそうに、視線を人ごみに彷徨わせていた。もしかすると原野さんを探しているのかもしれない。だが、兄の妹を思う視線は、本人に気付かれることなく宙に消えることになる。
「まことくん、ユウヒちゃんとこれからも仲良くしてあげてね。」
陽翔さんが静かに言った。その声は、不思議と周りの喧騒から浮かび上がるように俺に届いた。俺は陽翔さんを見る。陽翔さんは、いつもの柔和な笑顔を曇らせていた。心配そうに眉を下げて微笑んでいる。
「……はい。」
俺は、そう言った。勿論、そうするつもりだ。そうしたい。
だが、彼女はそれを許すだろうか。
“契約”という取引を後ろ盾にしてようやく、友好関係を持つことを認めた彼女。俺はその“契約”を延長し続けることでしか、彼女の友人を名乗れないのだ。
契約がどこまでも俺たちを縛る。
「僕はね、君ならすり抜けられると思うんだ。ユウヒちゃんが張っている“契約”の防衛線からもね。」
陽翔さんは俺の考えを読んだかのように話す。
「君は、君自身が思っているよりも強いよ。」
「…俺には分かりません。」
陽翔さんは俺を高く見積もり過ぎだと思った。もしそんな強さが俺にあれば、そもそもこんな状況にはならないはずだ。
「強さにはいろいろな種類があるからね。むしろ、君が言う強さを元々君が持ち合わせていたら、ユウヒちゃんも契約することはなかったと思う。」
陽翔さんは断言した。俺も、確かにそうだと思った。
「一見良くわからないようだけど、君は確かに強いんだよ。それに、ここ数か月でもっともっと強くなった。もう、ゲームショップで偶然出会った気弱そうな高校生じゃない。」
そう言って、また笑う。だが今度はさっきと違って、いつもの優しい陽翔さんの笑顔だ。
「君は僕にとっても、本当にいい友人なんだ。これからも是非よろしくしてほしいな。」
差し出された右手。俺はそれを、強く握った。答えなんて決まっている。
「あたりまえじゃないですか!」
原野さんはそれから間もなくして、微妙な表情を浮かべて返ってきた。末吉を引いたらしい。陽翔さんはそれを聞いて大笑いした。
「ちょっと!どうして笑うのよ!」
原野さんは本気で怒っている。
「いいじゃない!末広がりだよ、ユウヒちゃん!」
「じゃあ笑うのやめなさいよ!」
原野さんが陽翔さんの向う脛に蹴りを入れた。俺が先ほど入れられた蹴りよりもいい音がして、陽翔さんがつんのめった。
「…ユウヒちゃんは本当に容赦ないね……」
「そっちが悪いわ。」
断言する原野さん。俺はそれがおかしくて、原野さんに気付かれないように笑いを飲み込む。
「まあまあ、ご容赦くださいな、妹さま。せっかくだから、本日を末広がりで〆ないかい?」
「…どういうことよ」
「僕は行事が大好きだからね!最後にはみんながハッピーなプランニングをしているんだよ!最初に歩いてここまで来たのも、ラストをよりハッピーにするための布石だからね!」
陽翔さんは大袈裟に手を広げて言う。だが、原野さんは眉根を寄せて腕組みをした状態で、どこか拗ねたように自分の兄を睨みつけたままだ。おみくじの結果がそんなに不服だったのだろうか。
仕方がないので俺が相槌を打つことにする。
「そのハッピーなラストって、何ですか?」
「寒い日には、暖かい、甘いものって相場が決まっているでしょ?」
陽翔さんはいたずらっぽく笑った。
「おうちに暖かいお汁粉を用意してあるんだ!お腹をすかせて帰って、みんなで温まろうね!」
それの表情は、いたずらが成功した幼い少年のように無邪気で、それでいて実の兄の様に暖かくて、それがまた、本当に陽翔さんらしいと思った。