8."Be back where 1 started" -a1 『立話』
-a1『立話』
「不毛だわ。とっても不毛よ。」
そう言って、隣でマフラーにうずもれるようにして立っている原野さんが、一つ大きく身震いをする。
「そんなこともないですよ。地元のお社に新年のご挨拶なんて、趣深くていいじゃないですか。」
いつもの黒のブルゾンの前をしっかり合わせ、両手をポケットに突っ込んだ俺は答える。目線は前に向けたままだ。
「だからって、どうして徒歩で訪れないといけないわけ。自転車でいいでしょう?」
「それだと俺が置いてけぼりですよ。」
「そうよ、まずそれがおかしいの。どうして貴方がいるのよ。鷹尾が地元じゃないでしょ!」
原野さんが軽く地団太を踏む。もしかしたら寒さを紛らわせているのかもしれない。
俺も上体を軽く左右に揺らして熱を生み出そうとする。あまり効果は感じられないが、何もしないよりはましだ。
「お呼ばれされたんです。それに俺は、家の近所に地元のお社がないから丁度いいんですよ。」
「にしても!」
また原野さんは身震いする。手袋をした両手を顔の前でこすり合わせ、ギュッと目をつむる仕草。
「せっかくの三が日最後の日に、何が悲しくて往復2時間の散歩コースに付き合わないといけないの!ああ寒い!」
恨めしそうに言った。俺はそんな彼女を横目に見ながら、相変わらずぼんやりと正面に向かい合っている。見慣れたアパートの扉は開かず、そこから陽翔さんが出てくる気配はない。この状態のままかれこれ15分が経とうとしている。
新年めでたくあけまして三日目、1月3日。正月ムードもそろそろ終わりかというこの日、俺たち二人は陽翔さんのアパートの前で締め出しを食らっているのだった。
我が中澤家の年末年始は、例年つつがなく過ぎる。
大晦日には大掃除、夕食の後に年越しそばを食べて、炬燵にもぐりテレビを見る。元旦には簡単に新年のあいさつ。母さんが作ったおせち料理、お雑煮はとてもうまい。
だが、今年は唯一少し騒がしかった点があった。陽翔さんから年賀状が届いたのである。
インクジェットの紙面に、家庭用プリンターで写真をプリントしたのだろう、なかなか手の込んだものだったのだが、それが問題だった。
写真には、陽翔さんと、その妹である原野さんが写っていたのだ。しかもそれを、俺より先に母さんが見つけてしまったからタチが悪かった。
「ちょっと!誠、誰、この美人兄妹!友達!?」
目を輝かせて問い詰めてくる母さん。
「ああ、確かに、“美人”という感じか。男性だけども、そんな感じか。」
普段物静かな父さんまで、その写真を見るなり、興味を引かれたようにこうコメントした。
「か、母さん!返して…というか、俺まだ見てないから貸して」
だが、母さんは年賀状をなかなか返してくれない。
「でしょう、お父さん!私もこんなお友達、誠から聞いてなかったのよ!」
「誠も、高校に入って友好関係が広がったんだなあ。よかったなあ。」
父さんはなんだかうれしそうに目元を細めている。
「いや、父さん、大袈裟…」
「そうね!とにかく誠!良かったわね、何だかうれしいわ!」
とにかく。
ようやく俺の手に渡った陽翔さんの年賀状にはこう書いてあった。
『去年は大変お世話になりました。お鍋、またやろうね!今年も変わらずよろしくね!ところで、3日の予定は空いているかな?もし空いていたら連絡頂戴ねー.』
その後陽翔さんにメールして、今回のこの集まりは取り決められたのだ。題して、“鷹尾の神社に初詣に行こう”計画。
元日と二日目とは親戚がらみの集まりで粛々と過ぎ、今日。俺は指定された13:00に陽翔さんの部屋までやってきたのである。
原野さんとは部屋の前で落ち合った。だが、その時点でもう問題は起こっていたのだ。
「兄が返事しないんだけど。」
原野さんはむすっとした顔で俺に告げた。
「え…どういうことです?」
「家に来いって言ったくせに、チャイムを鳴らしても反応しないのよ。携帯にも出ない。」
俺も部屋のインターフォンを鳴らしてみた。ピーンポーンと乾いた音。だが、いつもなら間を開けずに聞こえてくる足音も、陽翔さんの声も、聞こえない。どこからか、しゃかしゃかとラジオの音漏れのような音が聞こえるだけ。
もう一度押してみた。もう一度、もう一度。だが、乾いた音が響き渡るだけで、家の中からの反応は全く無かった。
そしてそれから、何の反応もなく15分が経過しようとしていたのだった。
俺は、隣の原野さんを見やった。今日は実家から来たらしい。クリーム色のコートに薄いピンクのマフラー、ジーンズ、ショートブーツといった出で立ちだった。相変わらず寒いのか、今度は自分の上半身を抱きしめるようにしている。
「寒いですか、原野さん。」
「あー、寒い。寒いわ。すっごくね。」
「俺もです。」
「でしょうね、さっきからずっとひょこひょこしてるじゃない、貴方。」
原野さんはこちらを見ないまま、ちょっと笑ってそう言う。俺は相変わらず左右に揺れ続けていたのだった。
「こうすると熱が生み出されるような気がしませんか?」
「もっと派手に動かないと無理なんじゃない?」
「じゃあ走りますか?ぐるっとアパートまわりを一周」
「うん、じゃあ、行ってらっしゃい。」
冷たい反応だった。俺は、はあと息をつく。
「釣れないですね。」
「あたしを簡単に釣ろうなんて大間違いよ。」
原野さんはふふんと鼻を鳴らす。
「もっと釣られてくださいよ。」
「いやよっ!」
「………」
「…何か言いなさいよ。」
俺たちはぽつぽつとしゃべっていた。相変わらず扉はあかない。
あかない扉を前にして、俺はなんとなく思い出していた。
最後にこの部屋に来たのは12月24日、クリスマスイヴだった。あの時、上がりきった息も整えずにこの扉の前に立った時のことは、正直よく覚えていない。
無我夢中だったのだ。原野さんに言いたいことがあった。
正直俺は、あの時、自分の気持ちを正確に伝えられた自信はない。いくらかはっきりしたとはいえ、まだ自分にもよくわからないのだ。ベールがかかったように曖昧にぼんやりとしていて、時間をかけても上手く言葉にできない。
だが、俺の訴えは原野さんに通じたらしかった。
あの日から、送ったメールが返ってくるようになった。時々電話もするようになった。それは原野さんがメールの文面を打つことを面倒くさがったからであるが。
色々な話をした。あの時は矢吹に自転車を借りたこと。その後、自転車を返すついでにクレープを奢ったこと。部屋の整理をしていたら六月に一緒に行った舞園ランドのチケットが出てきたこと。
気が引けたが、谷口さんとのデートの話も報告した。だが、途中で切り上げたことを話しても、原野さんは怒らなかった。ただそのことには触れずに、「これは良くない、良くない」と繰り返していたのだった。
年が変わった時に、彼女からあけましておめでとうメールが来た。
年賀状で、原野さんたちの写真をみて両親に褒められたとき、なんとなく嬉しかった。
おせちが美味しかったとか、この番組が面白かったとか、他愛もない話をすることも新鮮だった。
そうやって過ごす年末年始は、とても楽しいものだった。
「あー、寒く無かったらなあ。」
彼女が突然言った。
「こういう時は、あたしは冬は嫌いだってしみじみ思うわ。」
「……同感です。」
どこからか甘いにおいがしてくる気がする。
俺は落ち着かない気分のまま、左右に揺れ続ける。
「寒くないとこ、行きたいですね。映画とか、そういう。」
「そうねー。この際、屋内ならもうどこでもいいわ。」
原野さんはずずっと鼻をすすった。
もう顔が鼻先まですっぽりとマフラーに埋もれてしまっている。寒さのせいか、頬から目元にかけてがほんのり紅くなっている。いつもはサイドに流している前髪が、今日はうつむき加減の顔にわずかにかかる形になって、額が隠れていた。時々その場で足踏みをするようにぴょこぴょこ。
その様子は、いつもの大人びた彼女のイメージと違って、凄く子供っぽくて、俺は、…その、凄く落ち着かなかった。
だから、そのせいだ。
思いついたことが、そのまま口をついて出てきたのだ。
「今度はそっちに行きましょうか。映画。寒くないし。」
言ってしまって、俺はまずいと思った。隣の彼女をチラ見する。
いつも通りまた怒られると思った。
だが、俺の予感は外れた。
「あー、良いわね、映画。」
「………。」
思いがけない反応に、俺は思わず彼女の方を見た。目が合う。原野さんが怪訝そうに口を尖らせる。
「なによ。」
「……結構すぐ釣られましたね」
「ちがうわよ!!」
原野さんはそう叫ぶなり、俺の向う脛に強烈な蹴りを入れた。
俺は不意打ちを食らって、情けなくも、その場に崩れ落ちた。
「……いたい……」
「釣られてない!釣られてない!」
彼女はさっきとは打って変わって、それは違うと繰り返し主張する。俺は何とか姿勢を立て直して、その場にしゃがんだ。足がぷるぷるする。
原野さんは俺の上方で、大変むすっとした顔をしていた。
「はは、分かってますよ…」
俺は笑いかける。
原野さんは目元をきゅっとしかめて俺を見る。
「……良くない。これは良くないわ。」
彼女はぽつりとそうつぶやいた。
それからいくらか時間が過ぎただろうか。
「あれ、二人とも、もう来てたの!」
あれだけ音沙汰がなかった部屋の扉があいて、ひょっこり陽翔さんが出てきた。
ラジオの音漏れのような音が大きくなった。
「ちょっと、兄!いるならなんで早く出てこないのよ!!」
原野さんが吠える。
「あはは、ごめんね、ちょっと音楽聞いてて。」
陽翔さんは申し訳なさそうに言う。この音は音楽が漏れてくるものだったのか、と納得した。
「にしてもよ!こんなに待たされるなんて聞いてない!」
「まあまあ、ユウヒちゃんもきっと喜ぶから!ね?」
陽翔さんはそう言ってウインクする。
「ま、それはともかく、ちょっと待ってて!すぐ出る準備してくるから!」
陽翔さんが部屋の中に消えて、原野さんは、はーっとため息をつく。
「……バカ兄。」
「まあ、いいじゃないですか。」
俺は笑う。
「笑い事じゃないわよ!」
「まあまあ」
「ほんと、いつかこの付けは払ってもらうんだから……」
頬を膨らませて言う原野さん。俺は、慌てて彼女から視線を外した。
なんというか、気恥ずかしさが頂点である。
いつの間にか、甘いにおいが強くなっている気がした。