7."Dis December" -d8 『真顔』
-d8『真顔』
全速で自転車を走らせて15分ほどたった頃、ようやく俺は陽翔さんのアパートに到着した。
自転車を駐輪場に止めて転げるようにアパートの階段を登る。疲れからか何度も足がもつれたが、気にしない。
二階の奥から二番目の部屋の扉の前にたどり着いた。肩で息をしながら、時計を確認する。午後6時半。思ったより時間がかかってしまった。
俺は息を整えることも忘れて、部屋のチャイムを押す。
陽翔さんはすぐに顔を出した。
「セイくん!よく来てくれたね!」
「は、はるとさん、おれ」
「ど、どうしたんだい、えらく急いできたんだね?」
「ちょっと、自転車を飛ばして…」
「電車使わなかったの?!」
「早く着きたかったので……」
陽翔さんは驚いたように俺を見ていたが、やがてにこやかに言った。
「そっか、ありがとう。そんなに急いで、ユウヒちゃんを心配してきてくれたんだね?」
「え、あっ」
その言葉に俺はいつものように上手い言い訳を考えようとしたが、とっさに思いつけなった。自転車を飛ばしたせいで疲れたのかもしれない。口からは思わず、
「…はい。」
と言葉が漏れていた。
陽翔さんは心底嬉しそうに微笑む。
「うんうん、そっかそっか!ささ、入ってよ、中はあったかいよ!」
言われるままリビングに入った。そこは陽翔さんが言う通りとても暖かかった。
久しく訪れていなかった大好きな空間に、俺はほっと安堵する。
「ユウヒちゃんは奥の部屋で寝てるよー。早く顔を見せてあげてよ!」
陽翔さんは俺の半歩後ろで言った。
病人の、…しかも女の子の寝ているところに入っていいものだろうかと、すこし躊躇った。
だがここで引いてはここまで来た意味がない。陽翔さんもいるから大丈夫だ。俺は意を決して、引き戸を開けた。
初めて見る奥の部屋は、陽翔さんの寝室になっていたらしい。小さめのタンスや本棚、デスクにはいつか見たノートパソコンが乗っている。
そして、奥のベッドには、原野さんが寝ていた。
声に気付いて目が覚めたのか、こちらを見ている。目が合う。沈黙。
「…あ、どうも。」
第一声は、俺の間抜けな挨拶だった。
「…ちょっと、なんでマコトがここにいるわけ。」
原野さんが静かに言う。
「いやー、ユウヒちゃん!メールしちゃった!」
「バカ兄!!」
陽翔さんの顔面にテディベアがヒットした。
「ちょ…いたい!ユウヒちゃん、投げないで!」
「バカ兄!!バカ兄!!」
「いたい!!」
原野さんは陽翔さんに、手の届く範囲にある人形を次々に投げつける。……そもそもなぜベッド周りにそんなに人形があったのかが気になった。が、そんなこと気にしている余裕はない。
5つほど力いっぱい投げたところで、力尽きたのか、原野さんがぱたりと枕に倒れこんでしまったのだ。
俺は思わずベッドに近寄った。
「だ、大丈夫ですか」
「なんでメールするの…よりによってマコトとか……しかも来ちゃうとか……サイアク……。」
「あの…なんか、すみません。」
「マコトもマコトでしょ……なんで来るのよ……映画…デートはどうしたのよ……まだいい時間帯でしょう…」
枕に顔がうずめられているので、表情は分からない。だが、熱のせいなのか、その声はとてもかすれていて、小さかった。
俺はベッドのそばに置かれていた椅子に座って、答える。
「別に、すっぽかした訳じゃないです。」
「じゃあなんだってのよ。」
原野さんの恨めしそうな声。いつもと弱い調子の声色は、今までの原野さんのイメージとはかけ離れていて、俺はなんだか落ち着かなかった。
「……原野さんと仲違いしたままは嫌だったので。」
少し間が開いて、原野さんは、ぼそっと言う。
「…あたし、別にあなたと仲違いした記憶はないんだけど。」
「わかってます。」
「いみわかんない。」
「俺も思います。」
「……なに、いつにもまして意味わかんないわ、今日のマコト。」
原野さんはそういって起き上がった。上体を起こして座り、俺の方を見る。
まじまじと、目があった。
互いにそのまま、沈黙。時間が流れる。
「………マコト、貴方、髪の毛がめちゃくちゃよ。嵐の中でも突っ切ってきたの?」
「…原野さんこそ、寝癖で前髪が立ってますよ。」
「うるさい。」
「いたっ」
腕をはたかれた。
俺は苦笑しながら言う。
「意味が分からないのは分かってますよ、原野さん。俺だって、ついさっきまではそうでした。」
「ふーん。」
「けど、わかったんです。」
「なに、なにがわかったっていうの?」
原野さんは片目を細めて尋ねる。
俺はゆっくり、答えた。
「俺は、契約でも、原野さんと仲良くしたいと思っていますよ。」
「…は、はあ?」
原野さんが間の抜けた声を出した。
俺は続ける。言いたいことを言う。
「だから、これっきりとか、そういうことを言われるのは嫌です。一方的です。押し付けです。確かに契約とか、そういうことは言っていましたし、それも事実ですが、俺はですね。」
そこで言葉を切った。原野さんはきょとんとしている。
俺は続きを口にする。
「それなら、その契約を延長したらいいだけのことだと思います。」
俺たちは押し黙った。チクタクと、時計の針の音が聞こえる。
原野さんはきょとんとしたまま俺を見ている。俺も原野さんを見ている。
どれほど時間が流れただろう。原野さんはきょとんとした顔をふっと真顔にした。
「………屁理屈。」
「…そうですか?」
「マコトって、実はかなり理屈っぽいわよね。」
「…初めて言われました。」
俺のその返事に、原野さんは目線を自分の手元にやった。布団の端を握りしめている。
そして。
「相当よ、だって何よ、延長だなんて、最初から期限決めていたじゃない、それを今更延長なんていって、一方的だなんて言うけどそれはあたしだってちゃんと期限を守って元々の貴方の望みをかなえないといけないと思ってやっているのにそれを貴方、押しつけなんてそんなのあたしだけが悪者みたいじゃない、兄だってずっとあたしが悪いって言ってくるしなんなのよもうなんなのそんなにあたしがわるいのどうなのもう!!」
そう、まくしたてた。そのまま体を九の字に折り曲げるように手元に突っ伏す。
「ちょ、原野さん?!」
「……。」
「……あの、大丈夫ですか?」
「……弱ってるのよ、風邪ひいてるのよ、熱があるのよ。忘れて。」
原野さんはそのまま、ベッドにごろんと横になった。俺に背を向けるように寝返りを打つ。
何も言わない。もう話は終わりだといわんばかりだ。
俺はそのまましばらく、原野さんの後ろ姿を眺めていた。陽翔さんはいつの間にか部屋からいなくなっていた。
相変わらずの沈黙だ。俺は時計の針の動く音をじっと数えて、何をするでもなく、彼女の後ろ姿を見つめている。
すると、不意に、原野さんが言った。
「……けど、今回は、あの、あたしもちょっとは悪かったわ。ごめん。」
時計の針の音にかき消されそうなほど、小さな声だった。
原野さんはそう言ったきり微動だにしない。
俺はその言葉を聞いて驚いた。とっさに言葉が出ない。
原野さんが謝った。それは今までの経験でも、とても貴重なものだった。
だがそれだけじゃない。
それと同時に、ああ良かった、と思った。
それはここに来たことに対してかもしれないし、矢吹と話せたことに対してかもしれない。帰る決断をしたことに対してかもしれないし、陽翔さんにメールをもらったことに対してかもしれない。今ここでこうやって、原野さんと話せたことに対してかもしれない。
ただ、胸の中が暖かくなるこの気持ちに触れて俺は、ああ良かったと、思った。
またしても静けさが流れる。目の前に彼女の後ろ姿。
原野さんはさっきの一言などなかったとでも言うような態度で、寝たふりを決め込んでいる。そんな後ろ姿に、俺は呼びかけた。
「…そうだ、原野さん。聞いてください。」
「………。」
「今、思い出したことがあるんですが。」
「………。」
「俺、実は、鍋パーティがすごくしたかったんです。」
「………ふーん。」
「ほんとに、すごーく、したかったんですよ、実は。」
「……未練たらたらね。」
「そうです。たらたらでした。しかも、クリスマスイヴの予定だったじゃないですか。」
「…なに、嫌味?」
「違いますよ。イヴだから、ほら、ちょっと気持ちが先走ったんです。」
「……ふーん。」
「原野さん。」
「………。」
「はらのさん。」
俺は身を乗り出して、だんまりを決め込む原野さんの肩をゆすった。ちょっと強引な気もしたが、仕方ない。
「何よ!」
原野さんはさすがに怒ったように、勢いよく体を起こした。
俺は急いで椅子に座りなおして、ブルゾンのポケットに手を入れた。
ポケットには、カイロとハンカチと、なんとなく持ち出した少しの未練。
俺はその未練の塊を取り出して、原野さんに差し出した。
「未練です。どうぞ。」
それは、原野さんに宛てて買ったクリスマスプレゼントだった。
12月の最初に陽翔さんに鍋パーティを提案されて、それを原野さんに一蹴されて、その後に買ったもの。まさに、やりたかったクリスマスパーティへの未練で用意したプレゼントある。
原野さんは自分の手元に押し付けられた包みを真顔で見ている。全く動かない。
…もしかして、なんのことなのか分かってないのだろうか?
「あの、原野さん、それ一応、クリスマスの」
「わかってるわよバカ、バカまこと」
原野さんは真顔のまま俺を見て、言った。
目があったまま、時間が流れる。原野さんはずーっと、真顔。顔にまるで表情がない。
俺はなんだか不安になって、原野さんに呼びかけた。
「えっと、あの……」
だが、そこからの彼女の行動は早かった。包みも一緒に巻き込むように、布団の中に潜り込んでしまったのだ。
「疲れた。寝る。」
「え、ちょっと」
「寝る!でてけ!」
「え」
「寝るって言ってるのに居座る気ですか、貴方は」
「す、すみません、出ていきます!」
俺はプレゼントへの感想も聞けぬまま、追い立てられるように部屋から出た。
リビングには陽翔さんがいた。こたつに座って、にこやかにこちらを見ている。
「僕は何も聞いていないよ!」
「………本当ですか……」
俺もこたつにお邪魔することにした。
陽翔さんは、テーブルに置かれた二つのマグカップの内の一つを俺に勧めてくれた。暖かいミルクティーだった。それを少し口に含む。ミルクティーは甘くて暖かい。
優しい味を堪能していると、そわそわと落ち着かない様子で陽翔さんがこちらに乗り出してきた。俺の近くで、小さな声で言う。
「それで、ユウヒちゃんはどんな反応だったの?」
「え?」
「“未練です、どうぞ”の後だよ!」
「……聞いてたんですか!!」
「えー、全然聞いてないよー?」
俺はなんだか猛烈に恥ずかしくなって、机に顔を突っ伏した。陽翔さんがうふふと笑っているのが聞こえる。
俺は陽翔さんに顔を見られるのが嫌だったので、そのままの姿勢で言った。
「……どんな顔もしてませんでしたよ。真顔でした。全く表情がなかったです。」
「そうなんだ。そっか、やっぱり!よかったよ。」
陽翔さんは嬉しそうに言う。俺はその反応がなんだか意外で、顔を上げた。
陽翔さんは相変わらず柔和に微笑んで、俺のことを見ている。
「よかったって…。原野さん、全然嬉しそうじゃなくてですね」
「まことくん、良いこと教えてあげるよ。」
俺の言葉を遮って、陽翔さんが言った。陽翔さんが俺のことを“まこと”といった。俺はそれに驚いて言葉をなくす。
陽翔さんはその柔らかな顔表情をもっと優しそうにゆるめていた。
「唯陽ちゃんって、照れた時に真顔になる癖があるんだよ。」
俺がその台詞にどう返したかは覚えていない。
その後、俺は陽翔さんと一緒に買い物に行き、二人でささやかな鍋パーティをした。そのあとシャンメリーを開けて、ケーキも食べた。
原野さんは結局起きてこなかった。だが、それで良かったと思った。
帰宅したのは11時を回った頃だった。
俺は手早く身支度を済ませてベッドに入り、矢吹にメールを送る。
今日のお礼、自転車のこと、そして29日のこと。あと一言、メリークリスマス。
メールを送ってすぐに、携帯が鳴った
。
だがそれは矢吹からの返事ではなく、原野さんからのメッセージだった。
『今日はお見舞いとプレゼント、ありがとう。メリークリスマス。』
To be continue…