7."Dis December" -d7 『気付』
-d7『気付』
それから、人の少なった車両に揺られて、俺は陽翔さんにメールを打った。
『今から行きます。』
決心は変わっていない。お見舞いに行こう、原野さんと話そう、そして、それから…。そうやって、さっきからずっと頭の中でシュミレーションしているのに。
俺は扉に寄りかかるように、額を扉のガラスにくっつけてみた。冷たい。
谷口さんは家に帰れただろうか。送ってあげた方がよかったのかもしれない。
ああ、今日は寒かったな。
『そうだね。本当に、ほんとうに寒かった。嫌になっちゃうくらい。』
谷口さんの言葉が繰り返される。
そう、嫌になるくらい、寒かったのだ。
原野さんに怒られるかもな、と思った。それが怖いな、とも思った。
舞園駅について、電車を降りる。いつも学校へと向かう経路と同じだ。
あたりには相変わらずカップルが沢山いた。俺とは反対方向に歩いていく。
これからディナーなのだろうか。クリスマスイヴをともに過ごす恋人たち。俺はその間をこそこそとくぐる。彼らを直視することはできない。
階段を下りながらなんとなく確認した携帯電話に、メールが届いていた。
矢吹からだった。
『近況報告求ム』と一言、書かれている。
…えらく簡潔な文面だな。別に返事を返さなくても良かったのだが、今回はなんとなく返事を書く気になった。
俺も一言、『今谷口さんと別れて駅。』とだけ送る。そんなに詳しく書く必要もないだろう。
だが、その読みが甘かった。
送信して一分もしないうちに携帯に着信が入ってきた。
「…もしもし」
『誠か!?』
「どうした、矢吹。俺がメールを返したのがそんなに珍しかったのか。」
『いやいや、違うだろ、誠よ、違うだろ!どうしてそんなことになってんだ、何かへまでもしたのか!やらかしたんだな、そうなんだな!?』
矢吹が何やらまくしたててきた。
「…待て、おちつけ」
『どうしたってんだ、誠よ!これからだろ?クリスマスイブはこれからだろ!?』
「あー…」
矢吹は止まらない。だが、まさか本当のことを言うわけにもいくまい。俺は気まずくなって、頬をかいた。
「…ちょっと、用事がな、できたんだよ。だから切り上げた。」
間があった。
『……はあ?!』
ワンテンポ遅れるように、矢吹の素っ頓狂な声が返ってきた。
『何、なんだ誠どうした何があった、ちょ、今電車だっけ、どこ行くつもりだ!』
「お、おい」
『どこだ!!』
思わず携帯を少し耳から話した。いつも以上に押しが強い、…というか怖い。
「な…永山」
気圧されてしまい、とっさに陽翔さんの家の最寄り駅を答えた。
『わかった!行くから、すぐ行くから!!岩戸の改札出たとこで待っとけ!!』
矢吹は半ば叫ぶようにそう言って、一方的に電話が切れた。
「…おい、なんでそうなる……。」
携帯に向かってつぶやいたが、もう回線は繋がっていない。俺はメールを返信したことを後悔した。まさかこんな流れになるなんて、誰が予測できただろうか。慣れないことはするもんじゃない。
乗り換えのホームから、鷹尾方面に行く電車に乗る。いつもより人が少なかったので座ることができた。
深く腰掛けて考え事をした。
舞園駅から学校の最寄駅である岩戸駅までは電車で15分ほどの距離である。そこから歩いて線を乗り換え、三駅ほど電車に揺られたら目的の永山につく。本当は岩戸から自転車を使った方が速いのだが、今はこれしか方法がない。
俺は矢吹をどう振り切るかを考えていた。矢吹のやつ、この急いでいるときに。なんて言い訳したらいいのか。どうやったら逃げられるか…。
考え事をするのに15分はなかなか短い。あっという間に岩戸駅のホームを踏むこととなった。
改札を抜けて外に出たところに、宣言どうり矢吹はいた。自転車の傍で仁王立ちになっている。
「…矢吹、まさかほんとに来てるなんてな…。」
「近所だからな。」
「そうか、じゃあ俺はこれで…」
「逃げるな誠よ。」
…はぐらかせなかった。俺はしぶしぶ立ち止まって、矢吹に向き合う。目は合わせられない。
「……急いでるんだ。」
「うむ。そうか。」
矢吹は腕組みしたまま俺を見ている。いつも笑顔な彼に似合わず、難しい顔をしていた。
「ときに誠よ。」
真剣な声色だ。今日の矢吹はいつもと違う。俺はそれをひしひしと感じた。
「…なんだ。」
「今日は大事な日だったよな。」
「…まあ、な」
「……ふられたか?」
「違う。」
思わず即答した。矢吹は、そうかよかった、と声を漏らす。
「じゃあ、ほんとに用事があるんだな。」
「……ああ、そうだな」
俺は矢吹をうかがった。矢吹は相変わらず腕を組んだ姿勢のまま、俺をじっと静観している。
「俺はな、一つ聞きたいんだよ。疑問なんだ。」
「…なんだ。」
「今日はクリスマスイブ本番だぞ。夕方五時を回って、イルミネーションも綺麗になって、さあこれからって時に、なんで切り上げてきた。」
「……」
「確かに門限もあるかもしれねーよ。けどさ、“切り上げた”って、お前。その様子じゃ、家まで送り届けてもいねーんだろ。」
矢吹の声の調子は、俺を追求するものだった。彼にとっては純粋に疑問なんだろう。だが、今の俺には、それは詰問だった。
苦しくなって、顔をそむける。
「俺だって、最初はそんなつもりじゃなった。」
「じゃあなんだよ。らしくないじゃねーか、誠。」
「……用事ができたんだ。」
「急にか?」
「ああ。」
俺たちは黙る。沈黙が訪れる。
日はすっかり落ちて、吐く息はとても白い。寒い。痛いほど、寒かった。体温がすべて奪われてしまったように。
矢吹は何かを考えるようにしていたが、やがて、静かにこういった。
「その用事ってのは、谷口さんのデートよりも大事なものなのか。」
その言葉に俺は、息を飲んだ。矢吹の言葉が強烈な印象を持って、俺の中を駆けていく。
谷口さんとのデートよりも大事。俺が好きな谷口さんとの約束を早めに切り上げてまで、原野さんの所へ向かう、この状況。なぜ俺はそうしたのか。
ただのお見舞い。陽翔さんに来てくれないかと頼まれたから。原野さんが“仲直り”したがってるから…?
俺は目を瞑った。じっと、正確な言葉を探した。
いや、そうじゃない。違うだろう。
これは、俺が“したかったこと”だ。
頑なに契約を押し付けられて、もう最後と言われて、それから実際に一度も会っていなくて、その言葉が現実になってしまうような気さえしていた。
だが、俺はそう思いたくなかった。“契約だ”と押し付けられるのは嫌だった。最後だなんて嫌だった。会えなくて寂しかったし、『もう最後ね』なんて言葉が本当になるなんて、嫌だったのだ。
陽翔さんが言うように、俺たちは喧嘩をしていたのかもしれない。自分の主張が通らなくて、話し合うことをやめた。
そうだ、大事なことを忘れていた。俺は、原野さんときちんと話さなければいけない。いや、話がしたいんだ。
『このままでは嫌だ』と、言わねばならない。
俺は、矢吹をまっすぐ見た。迷いはない。
「……ああ、大事だ。すごく大事な、用事だ。」
間があった。
矢吹は俺の顔をじっとみて、やがて、いつもの様ににやりと笑った。
「そうか。」
そして、手にかけた自転車のハンドルをグイッと操作して、俺にそれを押し付けた。
「そういうことなら貸してやる。」
ハンドルを無理やり握らされて、俺はおどろく。
「な、矢吹…?」
「永山なんだろ?電車より、チャリの方が速いじゃねーか。」
急ぐんだろ?と、矢吹はニカッと歯を見せて笑った。
「お前が考えもなしに切り上げたってんなら、こんなことしねーけどな!てか、ほんとはなんで切り上げたんだって、問い詰めようと思ってたくらいだ。」
「……実際、問い詰めたじゃないか」
「オレが本気だしたらあんなもんじゃないのだよ、誠君よ。」
矢吹は今まで見たことのないような悪い顔をしたが、それは一瞬のことで、またいつもの明るい笑顔に戻った。
「そんなに大事な用なんだったら速い方がいいだろ!」
そして矢吹は、俺の背中を強く叩く。
「ほら、走れ、誠!!」
叩かれた背中が熱くなる。そこから体中に熱が走る。思わず背筋を伸ばす。もう寒くなかった。
俺は自転車にまたがって一歩ペダルを漕ぐ。俺が体重をかけた分だけ、車輪が回って前進した。
俺はそのまま車体を反転して、矢吹に向き直った。
「……矢吹、俺は…」
「あ、そうだ!」
言いかけた俺を遮るように、矢吹が気楽な調子で言った。
「今日が24日だから、次は29日だ。」
「…は?」
「だから言っただろー、9のつく日はクレープが半額だ。あーたべてー!オレっち、甘いものくいてーなー!」
おどけた調子で言う。俺は思わず噴き出した。
「わかったよ、俺の奢りだ。29日は開けとけ。」
「さっすが誠!!よっ、親友!!」
矢吹は楽しそうに笑う。
俺も、笑った。
「矢吹、ありがとう!」
そういって、俺は自転車を反転させた。ペダルを踏み込む。車輪が回り、加速する。
目指すは陽翔さんのアパート。
そこに、原野さんがいる。