7."Dis December" -d6 『電車』
-d6『電車』
それから、買ったアロマオイルをどうやって谷口さんに渡したかはよく覚えていない。
喜んでいただろうか。笑っていたかもしれない。俺はその表情を正面で見ていたはずなのに、それはまるで映画のスクリーンの向こうのヒロインが笑っているようで、とても現実味がなかった。
店を出て、人の波に乗るように進む。夕方になってより人の量は増したようで、店の前の決して広くない通りには体を寄せ合うカップルがごった返している。俺は電飾で色とりどりに飾られた並木道を、人の間を縫うように進む。
「あの、まことくん?」
呼ばれてふと隣を見ると、俺の少し後ろを歩く谷口さんが不思議そうに俺を見上げている。
「なに?」
「えっと、次は、どこにいくの?」
「………。」
俺は黙って歩みを進めた。
早く歩かなければいけないと思っていた。外に出ても、不思議と寒さを感じないくらい気分が高揚していた。きっとそれは、ただ速足に人ごみをかき分けていることだけが理由ではない。
歩みを早める俺の少し後ろで、谷口さんはもう一度俺の名前を呼んだ。立ち止まって、谷口さんを振り返る。早く歩きすぎたのだろうか、その距離がさっきよりも少しあいていた。
「まことくん」
谷口さんと目があった。大きな目をもっと大きくして、俺を見ている。
俺はその目をじっと見返す。伝えるべき言葉を探した。谷口さんも立ち止まる。距離は詰まらない。
「……今日は」
「もう、…帰る?」
俺の言葉を遮るように、谷口さんが言った。首をかしげて俺を見ている。その大きな目に浮かぶ表情は、俺には分からない。
「…そうだね。帰ろうか。」
だが、俺がそう返したとき谷口さんは視線を伏せた。すっと目を細めて、それは笑っているようにも見えた。
駅までは歩いて10分ほどかかる。急ぎ足で歩いたが、実際に電車に乗れたのは17:00を過ぎたところだった。もう冬至も過ぎたので、あたりはずいぶん薄暗い。
扉側のわきに立って、外の景色を眺めた。曇ったガラス越しに外からの光がぼんやり映りこんでは消える。
「ねえ、まことくん。」
俺は隣を見る。谷口さんはこちらを見ていなかった。手すりに手をやって、じっと窓の外を見ている。
「なに?」
「今日は寒かったね。」
「……うん、寒かった。」
「わたし、実はね。寒いのって嫌いじゃないの。というかね、…むしろ寒い方ずっとがスキ。」
俺は谷口さんを見つめる。だが、谷口さんはこちらを見ない。視線が張り付いているように、じっと前だけを見ている。
「寒くても、誰かと一緒にいれば、あったかくなれるでしょう?自分の体温でさえもあったかく感じるほどだもん。だからわたしは、冬には誰かと一緒に過ごすイベントが多いんだって思う。」
「…うん。」
会話が途切れる。周りに人は沢山いるのに、やけに静かに感じた。谷口さんの小さな声が妙にはっきり聞こえる。
がたん、がたん、がたん。電車が揺れるたびに谷口さんの小さな体も揺れる。
俺は谷口さんに視線を向けたまま、口を開いた。
「そんな風に思えたら、よかったのかもしれない。」
「……まことくんは、冬が嫌いだったんだね。」
谷口さんは相変わらず窓の外を見ている。
「うん、そうだね。」
俺は正直に答えた。ここで偽っても仕方がない。
「わたしは好きだよ、冬。」
「うん。」
「まことくんも」
谷口さんはふいと顔をそむける。
「まことくんも、冬を好きになってくれたらいいのになあ。」
その時の谷口さんの表情は隠されて、全く見えなかった。
俺たちは押し黙る。
急行列車は俺たちを微かに揺らしながら、夜の街を進んでいく。
八ノ里駅まであと一駅となったところだった。谷口さんが、急に声を上げた。
「あのね、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
なんとなく相槌を打って横を見る。
さっきはこっちを見ようとしなかった谷口さんが、こちらに向き直っていた。大きな瞳と正対する形になる。
それに、ぎょっとした。
俺は目をしばたく。だが谷口さんは瞬き一つしない。
「この後、何かご用時でもありましたか?」
谷口さんは無表情だった。眉も、口元も、俺を射止めようとする大きな瞳さえも、彼女の心理の内側を何一つ映していない。
俺は狼狽えた。
狼狽えて、言い訳一つできなかった。
「え……あー、いや…」
「そっか。」
俺の表情を見つめて、谷口さんは一言こういった。
「…………そっかあ。」
そして視線がそらされる。また谷口さんの表情が見えなくなる。
電車が減速に入っていた。
そのまま俺に表情を隠すようにして、谷口さんが言った。
「今日は寒かったね。」
「…うん、寒かった。」
「そうだよね。本当に、ほんとうに寒かった。嫌になっちゃうくらい。」
俺たちがいた方のドアが開く。
谷口さんはそこからホームに降りる。本当なら俺も降りる駅だ。だが…。
動かない俺を、谷口さんが振り返った。目があった。
「あの…えっと」
俺は口ごもる。谷口さんと見つめあう。
一瞬瞳を大きくして、だが、やがてそれはゆるく細められて。
谷口さんは何かを飲み込むように、ゆっくりうなずいた。
「…まことくん、またね。」
「え、あ……うん。じゃあ、ね。」
彼女が“笑っているのだ”と理解するのに、時間がかかった。
扉が閉まって、電車は走り出す。
俺は先ほどの下車で人の少なくなった電車内で一人、息をつく。
外からの寒い空気のせいだろうか、それは一瞬白く濁って、消えた。