ドアマットになりようもない
我が国には少々変わった法律がございます。先代の国王陛下が王立魔術研究所と共に様々な魔術式を開発し、準備を整えたうえで発布なさった法律です。その法律の施行後、貴族家の領地本邸と王都別邸には種々の魔術式が組み込まれ、様々な登録が為されました。
先代の国王陛下はわたくしの曾祖父と同世代でいらっしゃいますが、お若いころに別大陸のとある国に留学しておられました。千年を超える歴史を持つその国は、神々の御加護と契約により、他国にはない神具・聖魔道具・魔術式を用いて特殊な法律とそれを執行する機関があるそうです。それにより、国の脅威となりかねない種々の問題を解決しているのだとか。その国の仕組みに感銘を受けた前国王陛下は帰国後に共に留学した側近たちと、その国の法律を元に我が国の現実に即した法律の制定に動き始めたそうにございます。
その当時我が国で最も問題視されていた『入り婿による婚家の爵位簒奪』案件に対応する法律をまずは制定なさったのです。それが『貴族家の後継に関する法律』、通称『後継者保護法』、俗称『乗っ取り入り婿絶許法』にございます。
我が国の貴族家は基本的に長子相続です。貴族家の半数は女性当主でございますし、過去に後継者騒動のあったお家では血筋を疑わずに済む女性当主を歓迎することもございます。そのような貴族家の思惑もあり、入り婿に入る殿方も少なくございません。大抵は同格の爵位・家格のお家の第二子以降を婿に迎えますが、場合によっては家格差のあるお家から迎えることもございます。
そして、問題を起こすのは高位貴族の第三子以降か下位貴族出身の入り婿が多ございます。跡取りの予備としての教育が為されておらず祖父母や親に甘やかされたお坊ちゃま、もしくは家格の違う貴族家に対応する教育を受けていない勉強不足の勘違い男。
通常は入り婿は早い段階から婚家で後継者の配偶者教育を受けます。でも、時にはそれが間に合わないこともございます。なので、大抵は同格か上位のお家から婿を迎えるのですが、必ずしもそれが叶うとは限りません。
わたくしの父がその教育の間に合わなかった勘違い男でございますの。元々お母様の婚約者は同格のお家の第二子でしたが、隣国との戦争にて戦死されたのです。隣国から仕掛けられた戦争は半年に満たず我が国の勝利で終結いたしましたが、その傷跡は大きく、婿入り可能な子息が激減したのです。結果、我が家は子爵家の第四子であった父を入り婿として迎えることになったのでした。
確りとした貴族教育を受けていない入り婿を迎えることになったお母様とお祖父様は父の役割は種馬と限定なさったそうです。勿論、婚約後に配偶者教育はしたのですけれど、何かを勘違いしているらしく全くやる気もなく、身につかなかったのだとか。なので、わたくしの成人もしくは母の侯爵位継承後に離縁するつもりだったそうですの。そうしないと面倒を起こしそうだから、と。
結局、面倒は起こりました。嫡子となるわたくし・ミーリツァが生まれると屑父は愛人を囲い、滅多に本邸には帰らなくなりましたの。わたくしも父に会ったのは14年の人生で5回あるかないかですわね。わたくしの異母妹に当たる庶子もいるそうです。
なお、屑父の生活費は侯爵家から与えられる品格保持費で、王都に我が家が所有する別宅に三人で生活しているそうです。王都の別宅は王都別邸とは別に何かあった時のために用意した小さな屋敷で、そこには屋敷の管理のために数人の兵士とメイドが常駐しております。
別宅に移った当初は侯爵家に支払いを回してきていたそうですが、お祖父様やお母様は支払いを拒否なさったので、今は品格保持費の範囲内で生活しているそうです。屑父の実家の子爵家や平民の愛人のこれまでに比べれば十分に贅沢な暮らしが出来ていたはずですわ。それに満足しているかは別として。
そんな屑父が彼の人生最大にして最後の問題を起こそうとしておりますの。我が家は今、『乗っ取り入り婿絶許法』に抵触する事態となっているのです。
我が家──アブディエフ侯爵家では昨日葬儀が行われました。わたくしのお母様にしてアブディエフ侯爵であるエヴァンジェリーナが3日前に死去したのです。
我がアブディエフ侯爵家は侯爵であったお祖父様ボリスラーフが1年前に事故で死去し、お母様が爵位を継ぎました。本来の爵位継承はわたくしが16歳で成人する3年後(今現在からすれば2年後)の予定でしたから、急な爵位継承やら領地や領政に関する諸々、財産の相続と手続きなどでお母様は多忙な日々を過ごしておられました。
勿論、わたくしも後継者として微力ながらお手伝いいたしました。お母様もわたくしも兄弟姉妹がおらず大叔父や大叔母の力も借りてお祖父様の急逝に伴う様々な手続きと事案を処理しておりました。入り婿の屑父エゴールは全く当てにならないどころか、お祖父様の葬儀に少し顔を出しただけでそれ以降は全く本邸には寄り付きもせず、別宅で愛人たちと過ごしておりましたわ。
爵位継承に伴う煩雑なあれこれが終わったところで、お母様は当初の予定通り屑父と離縁しようとしたのですけれど、離縁の話を父にする前に病が見つかりました。忙しさのあまりに体調不良を見過ごし、病と気づいた時には余命宣告されるほどまで病状は進んでいたのです。お母様は今後のことを考え、父との離縁準備と同時にわたくしが父を廃籍できるような準備も進めてくれました。諸々の手続きには半年以上の時間がかかります。高位貴族の離縁も直ぐには出来ず、半年から1年程の王城での調査がございますから。
病床に就いてから約半年、お母様はわたくしに侯爵としての仕事を引き継ぎながら、親子としての時間も過ごしてくださいました。
屑父との離縁は間に合わず、お母様が亡くなったのは3日前。葬儀は昨日終わりました。ずっと婚約者のハレヴィンスキー公爵子息イラリオーンが付き添ってくださいました。イラリオーンは3つ年上で、わたくしが5歳の時に婚約し、以降わたくしの夫・女侯爵の夫としての教育を受けてきました。昨年成人してからは侯爵家で同居し、当主補佐としてお母様とわたくしを支えてくれました。今回もずっと傍で支えてくれました。葬儀に顔も出さなかった屑父とは大違いです。
葬儀に参列もしなかった屑父は今日、数年ぶりに本邸を訪れました。祖父の葬儀は神殿で行いましたから、屑父が本邸に来たのは本当に数年ぶりです。普段は王都の別宅住まいですからね。なお、わたくしやお母様は年の3分の2を領地で、社交シーズンの間だけ王都別邸で過ごしておりました。領地は王都に近く、馬車で半日ほどの距離です。
屑父は何の先触れもなく騒々しくやって来ました。何やらけばけばしく下品な装いの娼婦と女児を伴って、不本意ながら出迎えた執事長に横柄な態度で何やら命じておりましたわ。侯爵様のお帰りだぞ!とかなんとか。侯爵はここにおりますのにね。
仕方なく玄関ホールに出たわたくしに向かって、何やら言おうとしたので、話は別室でと告げてさっさと踵を返しました。恐らく娼婦と女児をわたくしの新たな母と妹だとでも言おうとしたのでしょうけれど。
屑父は愛人と庶子を同席させようとしましたが、そんなこと許すはずがございません。愛人と庶子を同席させるなんて無礼すぎると執事長が警備の騎士に何か命じていましたから、恐らく地下牢にでも入れたのではないかしら。お母様を侮辱し馬鹿にするような発言を愛人がしていたし、庶子はイラリオーンに擦り寄ろうとしていたし、そんなことを我が家の使用人たちが許すはずもありません。庶子はまだ12歳のはずですが、母親に似て阿婆擦れのようですわね。
応接室で話をすることにしたのは、屑父を家族とは思っていないからですわ。ですから、家族のための部屋である居間にも談話室にも連れて行かず、お母様の──今はわたくしの部屋となった執務室にも入らせることは致しません。
応接室では三人掛けのソファの真ん中にわたくし、両隣はイラリオーンとメニシコフ公爵が座ります。公爵閣下は今後のために葬儀の後もご滞在くださっていたので助かりましたわ。対面には屑父が偉そうにふんぞり返って一人で座っております。
「何で無関係の奴らがいるんだ」
屑父はメニシコフ公爵を見てわたくしにそう文句を言います。あらあら、屑父は筆頭公爵家当主のお顔を存じ上げないのですね。情けないことです。まぁ、愛人宅に入り浸り、最低限の王宮舞踏会にしか参加しておりませんから仕方ないのかしら。でも、貴族としては有り得ませんわね。まぁもうすぐ貴族ではなくなりますけれど。
「無関係ではありませんわ。それでお話とは?」
「おい、タマラとエリカを何処にやった! 俺の妻と娘だぞ。さっさとここに連れてこい!」
わたくしの言葉を無視し、屑父は控えていた侍従に命じます。けれど、侍従が動くことはありません。間もなくこの家の人間ではなくなる屑父の言うことをきく者などいないのです。屑父が動かない侍従に更に何かを言いつのろうとしたところで、再度声を掛けましたわ。侍従を怒鳴り付けようとしていましたからね。大切な使用人が屑に罵倒されるなど許せるわけございません。
「あら、再婚なさいましたの?」
少々馬鹿にするような声音になってしまいましたわ。イラリオーンがメッと叱るようにわたくしを見て苦笑します。イラリオーンも屑父の所業は知っていますから仕方ないと大目に見てくれているのでしょう。
「これからだ! まだあれが死んだばかりで手続きが出来んからな」
流石に配偶者の死去後直ぐには再婚は許されておりませんものね。最低でも1か月は再婚は許されません。でもお母様のことを『あれ』だなんて、無礼ですわ。
「再婚なさるのでしたら、貴方は当家とは縁が切れます。当家の籍から外れますから、別宅からも出て行ってくださいませね」
再婚するならばアブディエフ侯爵家とは無関係になりますから、当然別宅に住む権利はなくなります。入り婿が婚家の籍に残ったまま再婚するなど出来ませんもの。
そう告げますと屑父は何故か悔しそうな不満げな顔をします。わたくしは常識的なことしか言っておりませんのに。
「仕方ない、愛人としてここに住まわせる」
悔しそうな顔をしたまま屑父が言います。愛人を本邸に住まわせるなんて出来るわけないでしょうに。
「無理です。屋敷居住契約に反しますわ」
貴族家の領地本邸と王都別邸には居住契約という魔術式が組み込まれていて、そこに住む者は制限されますのに。別宅はこの魔術式がないから、愛人と庶子も住めましたのよ。
「屋敷居住契約? なんだそれは」
屑父は貴族としての基本知識も欠如しているようです。下位貴族の嫡子以外は教育が足りないことも多いので、入り婿になる際は婚家が教育を施すのですけれど、屑父は教育を拒否したのでしたわね。
「君は『貴族家の後継に関する法律』を理解しておらんのかね」
呆れたようにメニシコフ公爵がおっしゃいます。閣下、理解していないから愛人を連れて来るなんて恥知らずな行いが出来るのですわ。
「君は入り婿でありながら何にも理解しておらんようだな。面倒ではあるが、説明してやる」
溜息をつきながら、閣下が屑父に説明を始めてくださいました。面倒見のよい方ですわね。わたくしなら面倒だから籍を外しましたと放り出すところですけれど。
閣下が屑父に説明して下さったのは『乗っ取り入り婿絶許法』についてです。
まず、この法律が出来た経緯として、入り婿による婚家簒奪が問題になっていたということがございます。成功例は少ないのですが、各世代に数件はこの問題が起きていました。発覚するのは分家が確りしている上位貴族だけでしたから、恐らく下位貴族ではもっとあったのではないでしょうか。
入り婿による簒奪には一定の条件や流れがございます。
・婚姻前もしくは婚姻間もないころからの愛人の存在
・愛人との間に嫡出子と変わらない年ごろの庶子がいる
・嫡出子が一人のみ、かつ女児である
・嫡子の成人前に正当な当主である母親が死亡し、入り婿が当主代理となる
・代理となって間をおかずに愛人と再婚
・嫡子の冷遇・虐待、異母姉妹による婚約者寝取り
これらの段階を防止するために出来たのが『乗っ取り入り婿絶許法』です。この法律に沿って、入り婿を迎えた貴族家は様々な手続きや登録をいたします。
まずは、『血の登録』。嫡出子が生まれた段階で神殿が子どもの魔力パターンを登録いたします。その際、当主(もしくは次期当主)である母親との母子鑑定も行われます。なお、母親の血を引いていればいいので父子鑑定は行われません。以降、1年に1度、嫡出子が成人するまで当人確認が行われます。これは入り婿による嫡出子監禁・庶子との入れ替えを阻止するためです。嫡出子が複数いても同じ手続きと登録が行われます。近頃は男性当主のお家でも登録と鑑定をするようで、ほぼ全ての貴族家が血の登録をするようです。
次にほぼ根本解決といっていいのですが、当主交代は基本的に嫡孫が成人してから行うこととなっております。我が家であれば、わたくしが成人してからお母様が爵位を継ぐ予定だったのです。当主が嫡孫の成人前に死去した場合は嫡子が爵位を継ぎ、爵位を継いだ母親とは別の一族の長老格の重鎮が嫡孫の後見人となります。入り婿が後見人となることはございません。これは嫡子が先に死去した場合も同様で、やはり入り婿の出番はございません。
現在メニシコフ公爵が同席して下さっているのは閣下がわたくしの後見人だからです。因みに一族とはいえ分家ではありません。王家・公爵家・侯爵家は長い歴史で全てが縁戚なのです。そのため、比較的血の近いメニシコフ公爵家が後見人としてお祖父様に指名されたのです。お祖父様の親友のご子息ですから。
更に、入り婿の再婚についても既定がございます。入り婿が再婚した場合、直ちに婚家から出て行かなければなりません。入り婿の再婚及び婚家への居座りはまさに乗っ取り入り婿の定番でございますから、禁止いたしますわよね。
愛人を本邸に引き入れ、実質夫人にしようとしても、それも出来ません。貴族家の屋敷(本邸・別邸ともに)に居住する人間は全て登録が必要なのです。これが居住契約ですわ。
居住者は当主の直系血族とその配偶者、使用人に限定され、その登録がなければ屋敷に住むことは出来ません。これは単なる決まり事ではなく、魔法契約であり、登録されていなければ魔法によって屋敷から排除されてしまいます。
客人の場合、滞在目的と期間を示した上で客人として宿泊許可が下ります。当然魔法契約で、虚偽があれば即座に物理的に屋敷から追い出されます。しかも滞在期間は最長1か月と定められているのです。
当然、入り婿の愛人など認められるはずがありません。使用人として登録する抜け道があるようにも思われますが、そうも参りませんの。使用人がその職務から逸脱した言動をとると即座に着の身着のまま屋敷から排除され、二度と屋敷には入れなくなるのです。
屑父の愛人タマラとその娘の庶子エリカが使用人として登録された場合、彼女たちは使用人としての行動しか出来なくなります。エリカが屑父を『お父様』と呼んだ瞬間、エリカには魔法によるお仕置きが下されます。タマラもエリカも屑父を『婿様』としか呼べないのです。屑父はお母様の夫・わたくしの血縁上の父というだけですから、『旦那様・ご主人様』とも呼べませんし、無爵位ですから閣下とも呼べませんしね。
更にタマラが屑父と肉体関係を結ぼうとした瞬間、契約魔法が発動し、タマラと屑父、エリカは着の身着のまま屋敷の外に追放されることになります。
この居住契約は入り婿のある家だけではなく、全ての貴族家で用いられている術式ですわね。どんなご家庭も色々な問題があるがゆえに、こういった面倒な契約魔法が出来てしまったのですわね。こんな面倒な仕組みが出来るほど過去の我が国の貴族の闇は深かったのでしょうか。
さて、メニシコフ公爵閣下から以上のようなことを説明された屑父は呆然としておりました。
「俺は侯爵ではない、代理ですらない……」
「ええ、侯爵はわたくしです」
我が国では未成年でも爵位継承は可能です。そのための後見人制度なのですもの。
お父様はブツブツと何かを呟いています。どうやら侯爵にはなれなくてもわたくしの成人までの間侯爵代理として好き勝手出来ると思っていたようですわ。その間にわたくしを排除してエリカを次期侯爵とするつもりだったと。
「お父様、市井のロマンス小説の読みすぎではございませんこと? 我が国に当主代理などの制度はございません。お母様がお亡くなりになった瞬間から、この家の当主はわたくしで、アブディエフ侯爵もわたくしです。仮にわたくしがいなくなったとしても、当家の血をひかぬ庶子に爵位継承は出来ませんわ。お祖父様のご兄弟のお孫さん……わたくしのはとこが後を継ぐだけですわ」
そう現実を突きつければ、屑父はふらふらと立ち上がります。
「タマラとエリカを連れて王都へ帰る。今迄通り別宅で暮らす分には構わんだろう」
侯爵の父として当家に居座るつもりですのね。まぁ、大抵の入り婿は当主たる夫人が亡くなっても爵位を継いだ子の保護者として補佐としてそのまま暮らしますもの。愛人を作って別宅にいるような屑父と違って、立場を弁え真面な夫婦関係・父子関係を築いていますからね。でも、我が家ではそうは参りませんわよ。
「あら、貴方はもう当家とは関係のない平民ですわよ」
そう告げると同時にドアがノックされ、王都へ出向いていた家令が戻ってまいりました。母の葬儀が終わった後、手続きが終わった旨の連絡が王都の治部省からあり、家令が王都に廃籍証明書の受け取りに行ってくれていたのです。丁度良いときに戻ってきてくれましたわ。
「お母様が爵位を継いだ時点で貴方を当家の籍から抜くことは決まっておりましたの。お母様による離縁かわたくしによる廃籍か。家令が今、王城から廃籍証明書を受け取ってまいりましたわ。貴方はお母様と婚姻した時点で実家の子爵家の籍から抜けていますから、平民となりましたわね」
わたくしの言葉に屑父は目を見開き、ワナワナと震えています。何かを言いたそうにしていますが、怒りと混乱で言葉が出ないようです。ですが、それは彼にとって幸いでしたわね。平民がわたくしに罵詈雑言を吐こうものなら不敬罪で首が飛びますもの。
「ナザール、これとこれの連れを子爵領まで連れて行ってくれるかしら。子爵との話はついているから、あちらでこれたちの面倒は見てくれるそうよ」
平民には不釣り合いの衣類や宝飾品、別宅備え付け以外の調度品などは屑父の品格保持費で賄っておりましたから取り上げずに売り払って換金しました。真贋を見抜く目も審美眼もなくて随分安物を高値で買わされていたようで、大した額にはなりませんでしたけれど。それでも田舎の子爵領の片隅で親子三人慎ましく暮らしていくのであれば十分な資金ではないでしょうか。贅沢に慣れた彼らがそれに満足するかは判りませんが、周囲には田畑と森しかない土地らしいので、散財する場所もございませんし、大丈夫でしょう。
侍従のナザールは了承の一礼をすると、屑父を引っ立てていきました。そしてぎゃーぎゃーと喚く屑父と娼婦と阿婆擦れ娘を連行し、荷馬車に乗せて子爵領へと出発しました。これまで使っていた高位貴族用の乗り心地の良い箱型馬車ではなく、幌のついた荷馬車での旅はさぞや苦痛に満ちたものになるでしょうね。子爵領までは10日ほどかかりますから、戻ってきたらナザールにも騎士たちにも十分なお手当とお休みをあげなければいけませんわ。
「私の出番はなかったね」
屑父を乗せた荷馬車が屋敷を出て行くのを窓から見ていると、隣に立つイラリオーンがそんなことを言います。
「なくて良いのですわ。あれを捨てることがアブディエフ侯爵としての最初の仕事でしたもの」
我が家の負債、汚点を排除するのが侯爵家当主としてのわたくしの最初のお仕事でした。これからは家中の憂いはなくなりましたから、領政に注力できますわね。ああ、それと成人直後に結婚式の予定ですから、その準備も始めませんと。
「絶許法の改正案を出すことにしたよ。入り婿に庶子が出来たら即座に離縁とするように改正しよう」
イラリオーンとは反対の隣にいたメニシコフ公爵……コンスタンチーン小父様がおっしゃいます。確かに入り婿の癖に庶子を儲けるのは有り得ませんわね。というか、庶子を儲けるのは入り婿であろうと当主であろうと許せませんわ。夫婦が互いを尊重しあうのは大切なことですし、それ以上に庶子などお家騒動の元ですもの。
でも本当は『絶許法』なんて必要ない社会が一番なんですけれどね。人の欲も業も深いですから、無理なのでしょうね。
取り敢えずわたくしは夫となるイラリオーンと仲良く、かつ信頼を築いて、後見人のコンスタンチーン小父様の助けを借りながら女侯爵として頑張りますわ。
でも、その前に、お母様を偲ぶことにいたしましょう。最初の務めを終えたのですもの。14歳の子供らしく、泣いても許されますわよね。