あのひとが泣いた日を、私は知らない
高速道路の下に、小さな慰霊碑があった。
標識も案内もない通りすがりではまず気づかない場所。
だがその足元には静かに手入れされた花と折り鶴と水の入ったコップが置かれていた。
「誰かが……通ってるんですね。ずっと」
レンがつぶやいた。アカリはうなずき、黙ってしゃがみこむ。
慰霊碑の石肌には十年前の事故日付と“祈”の一文字だけが刻まれている。
「この場所で、飲酒運転による事故があったそうよ。歩行者が一人、即死だったとか」
道路を見上げれば、何の変哲もない車道。だがこの石の前に立つと、時間が止まっているように感じられた。
彼らは市の依頼で、この“無名碑”の草刈りと記録調査を依頼されていた。だが最初に訪れたその日から、アカリは感じていた。
ここには、名前ではなく「想い」が残されている――と。
◆
二日目の朝。アカリとレンが再び現地を訪れると、そこにひとりの女性がいた。
黒のパーカーに白いマスク。長い髪を後ろで束ね、立ったまま手を合わせていた。
静かに礼をしてそっと花瓶の水を替える。その姿はまるで何年も変わらず続けてきた人のようだった。
彼女はこちらに気づいていた。だが声はかけてこない。
アカリが近づいて「こんにちは」と柔らかく声をかけると、小さく頭を下げた。
「……ここの、お世話をされてるんですか?」
「いえ。そんな、大したことは……」
女性はうつむいた。声はかすれていたが、どこか深く、言葉を大切にしているようだった。
「お名前を聞いても?」
少しの間のあと、彼女は名乗った。
「羽佐間……梨紗です」
◆
梨紗は慰霊碑の事故で命を奪った青年の“加害者の娘”だった。
父親はその夜、酔ったまま車を運転し、歩行者を撥ねた。供述も謝罪も中途半端なまま数年後に病で他界。
母も心を病み、数年後に亡くなった。
そして梨紗だけが、町に残された。
「私は……ただ、忘れたくなかったんです」
彼女は折り鶴を折りながら、ぽつりぽつりと語った。
「どんなに言い訳しても、父は命を奪った。なのに、私には何もできなかった。誰にも謝れなかった……せめてあの方のことを“思い出す”ことだけはやめたくなかった」
彼女の手元には、これまで折ったと思われる鶴の箱があった。どれも色褪せていたが端正だった。
「“罪”って、本人が亡くなっても、消えないんですね。残された人間が背負うんだなって……わかってたはずなのに、時々、くじけそうになります」
アカリは言葉を探してから、そっと言った。
「それでもあなたは、“逃げなかった”。それが、何よりすごいと思います」
梨紗の肩が震えた。
◆
その夜、慰霊碑にまた風が吹いた。
レンは無言で灯りを灯し、アカリは周囲の折り鶴をそっと集めてひとつひとつを撫でた。
ふと、慰霊碑の裏側、石の陰に小さな紙片が挟まっているのを見つけた。
「アカリさん……これ」
それは、白く乾いた紙。
筆ペンで、こう書かれていた。
「すまない。ありがとう。ごめんな」
乱れた文字。だが、強く、力のこもった筆跡。
それはおそらく――梨紗の父が残した、最後の言葉。
アカリは紙をそっと彼女の手に渡した。
「きっとこれ、あなたに読まれるのを待ってたんだと思う」
梨紗は長く目を閉じた。涙がこぼれるまで、ほとんど時間はかからなかった。
◆
翌日。
梨紗は慰霊碑の前で静かに手を合わせたあと、アカリに向き直って言った。
「……また来ても、いいですか?」
「もちろん。ここは、誰かを思う場所だから」
梨紗は小さく笑った。それはとても弱く、けれど確かに“始まりの笑み”だった。
レンは隣で、折り鶴をもうひとつ、そっと地面に置いた。
「あなたはもう、誰かの希望になってると思います」
春の風が鶴の羽を揺らす。
罪は消えない。けれど、想いは生まれ直せる。
アカリとレンは、背を向けて歩き出す。
遠くで、梨紗が静かに立ち尽くしている。
その姿が、光の中でとても優しかった。