手を離した日のことを、まだ知らない
山の診療所跡地は、春の陽差しに包まれていた。
山道を抜けた先にぽつんと建つ木造の平屋。レンは軽トラックを降り、古びた玄関の前に立った。横ではアカリが小さく呼吸を整えている。
「ここが、例の診療所ですか」
「ええ。五年前まで稼働していたけれど、今はもう閉院してる。最後に記録された患者の名前はなくて、身元不明……だけど、診療日誌には“感謝していた”って書かれてたわ」
そう言いながら、アカリは静かに扉を開けた。軋む音が、森の静けさを少しだけ破った。
中には誰もいない。だが、消毒液のかすかな匂いと日当たりのよい廊下に漂う暖かさが、ここが“命を扱う場所”だったことを語っていた。
「本当に、亡くなった人の“残り香”みたいなのがあるんですね」
レンの声は、どこか寂しげだった。
「でもそれだけじゃない。まだ“何か”がここにある気がする。残されたもの……願いとか、祈りとか」
二人は受付に記録ファイルを置き、奥の診察室へと進んだ。
診療所は思っていたよりも整っていた。
机の引き出し、棚のカルテ、診察室の備品。どれも少し古びているが荒らされた形跡はない。
唯一、処置室のベッドの上にだけ新しいように見える毛布が畳まれていた。
「これ、最近使われたような……」
レンがつぶやくと、アカリがうなずく。
「この場所、地元の子が夜に“紙飛行機を飛ばしている”って報告があったらしいの」
「紙飛行機?」
レンは首をかしげたが、それ以上言葉を継げなかった。
そのとき床下から“カサ……”と何かが動く音がした。
二人は手分けして、診療所の物置スペースを調べ始める。
床の隙間に手を伸ばしたレンが、指先で何か軽いものに触れた。
「……これ、手紙?」
引き上げると折られたままの紙飛行機だった。端には小さな文字が書かれている。
「ありがとう。おかあさんへ」
アカリが紙を受け取り、そっと開いた。そこにはつたないひらがなで、こう綴られていた。
「ごはんたべたよ。おかあさんありがとう。ぼくいきてるよ。」
レンは息をのんだ。
それは“死”の記録ではなかった。“生きている”ことの、祈るような報告だった。
二人は紙飛行機をさらに探し、十通以上の“ありがとう”の手紙を見つけた。
どれも内容は違うが共通していたのは――「母親に伝えたい思い」だった。
「きっとこの子、生き延びてたんだ……」
レンがぽつりと呟く。アカリは頷きながら閉じかけた診察室のドアに目を向けた。
そのドアには、色あせた名札が貼られていた。
「結城 芽衣」――看護師長
「彼女が、最後まで患者を診ていた人かもしれない」
そのとき、レンが壁際の棚の上に古びたアルバムを見つけた。中には病院スタッフの集合写真。その端に、小さく微笑む女性の姿があった。
「この人……」
「ええ、たぶん“あの母親”ね。きっと、ここで亡くなった」
静寂が満ちる。
けれど、その沈黙の中で――レンは確かに聞いた。
誰かの“ありがとう”が、風に乗って聞こえた気がした。
夜になり、二人は診療所の屋上に上がった。
そこは小さなヘリポート跡地のようになっていて、風が抜けるたび紙飛行機が音を立てた。
「誰かの命が救えなかった時、自分が無力だったと思うのは、当然だと思う。でも……」
アカリが言葉を探すように語る。
「“何もできなかった”って思うより、“想いが届いていた”ってことを信じたいの。私たちはそのために、ここに来たのかもしれない」
レンは手元の紙飛行機を見つめた。先ほどの子どもの文字が、微かに震えていた。
「おかあさん、そらにいる? ぼく、きょうもせかいがきれいっておもったよ」
それは、残された者が“生きる”ということの証だった。
レンは深く息を吸い、折り直した紙飛行機を両手で掲げる。
「……飛ばしても、いいですか」
「ええ。きっと、届くわ。どこかで、ちゃんと」
風が吹いた。
レンの手を離れた紙飛行機は空に舞い上がり、春の星々のもとへ吸い込まれていった。
その白い翼は誰かの“明日”を目指しているように思えた。
その数日後、レンは市の窓口で一通の封筒を見つける。
差出人不明、消印なし。中には一枚の絵――折り紙で作られた飛行機と青い空の絵が描かれていた。
そして、端にはただ一言。
「みつけたよ。ありがとう。」
レンは笑った。小さな声で、風に向かって答えた。
「こちらこそ。生きてくれて、ありがとう」
アカリは横で微笑む。二人は再び歩き出す。
誰かの命の続きを、少しでも照らせるようにと願いながら。
診療所の跡地にはもう誰もいない。
けれど、あの日の紙飛行機は、まだどこかの空を飛んでいる。