声なき教室で、君の歌が響いた
レンがその廃校を訪れたのは、春先の雨上がりだった。
山間にぽつんと残された木造校舎。文化財として保存するか、取り壊すか。市の方針が決まるまでの一時点検のため、彼とアカリは数日間、簡易宿泊の準備をして校舎に滞在することになった。
「静かですね」
レンが言うと、アカリは頷いた。古びた窓ガラス越しに差す光は、校舎の中に水槽のような静けさをもたらしていた。
「でも……音がするの。遠くで鳴るような」
「……ピアノ、ですね」
それは気のせいではなかった。
夕暮れ、ふとした瞬間に廊下の先から確かに音がした。音楽室の扉は閉じられていたが、内側から淡い旋律が漏れている。古びたピアノの音にしてはずいぶん澄んでいた。
「開けても……いいですか」
レンがそう訊いたとき、アカリは何も言わずに扉に手を添えた。
――ギィ。
開かれた音楽室には誰もいなかった。だが、埃まみれの教壇とは対照的に、ピアノの鍵盤だけは磨かれていた。譜面台には半分だけ書かれた手書きの楽譜。左手の旋律は終わっているのに、右手の部分だけが“途中”で切れていた。
まるで、続きを誰かに託しているように。
「先生に、続きを弾いてほしかったのかな」
レンの言葉に、アカリは静かに視線を落とした。
「……ここで亡くなった生徒がいるの。名前は記録に残っていないけど、たしかにこの場所で、何かが終わった」
「でも、それだけじゃないですよね。なぜか、ここに来てから……何かを待ってるような感覚がするんです」
アカリはピアノに触れた。冷たい鍵盤。だが、そこに触れた指先がかすかに温もりを覚えた。
「その続きを、私たちが弾いてもいいと思う?」
「……もし、それが誰かの“声”なら。ちゃんと受け取って返したいです」
雨上がりの窓の外で、風が桜を揺らしていた。
教室の中に花びらが舞い込んで、譜面台に一枚落ちる。
それはまるで、「はじめて」と書かれた手紙のように――優しかった。
◆
その夜。
アカリとレンは譜面の続きを二人で手探りで書いた。
左手は穏やかなまま右手は少し躊躇いがちに、でも希望を掴もうとするように。
レンが伴奏を引き受け、アカリが旋律を乗せた。ピアノを二人で囲むのは初めてのはずなのに、何かを思い出しているような懐かしさがあった。
――ポロン。
音が重なった瞬間。教室の空気が、ふっと澄んだ。
窓の外に誰かの姿が見えた。白いシャツ、短い髪、笑っている少年。
幻かもしれない。けれど、レンはその笑顔が「ありがとう」と言っているとわかった。
「名前、訊けなかったですね」
レンが笑うと、アカリも少しだけ微笑んだ。
「でも、きっと……歌ってくれてた」
ピアノの最後の音は、ふたりの指で鳴らされた。
そして、それに重なるように――“もうひとつの手”が、鍵盤の上に触れたような感覚があった。
確かに、その音は“合奏”だった。
誰かと、共に奏でる音だった。
◆
翌朝、レンがピアノの譜面台を見ると、そこには書き足された一小節があった。
手書きのそれは、決して上手な筆跡ではなかった。けれど、温かかった。
――まだ音は続いている。