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『赦灯シリーズ』  作者: 言諮 アイ
2/5

声なき教室で、君の歌が響いた

 レンがその廃校を訪れたのは、春先の雨上がりだった。

 山間にぽつんと残された木造校舎。文化財として保存するか、取り壊すか。市の方針が決まるまでの一時点検のため、彼とアカリは数日間、簡易宿泊の準備をして校舎に滞在することになった。


「静かですね」


 レンが言うと、アカリは頷いた。古びた窓ガラス越しに差す光は、校舎の中に水槽のような静けさをもたらしていた。


「でも……音がするの。遠くで鳴るような」

「……ピアノ、ですね」


 それは気のせいではなかった。

 夕暮れ、ふとした瞬間に廊下の先から確かに音がした。音楽室の扉は閉じられていたが、内側から淡い旋律が漏れている。古びたピアノの音にしてはずいぶん澄んでいた。


「開けても……いいですか」


 レンがそう訊いたとき、アカリは何も言わずに扉に手を添えた。

 ――ギィ。

 開かれた音楽室には誰もいなかった。だが、埃まみれの教壇とは対照的に、ピアノの鍵盤だけは磨かれていた。譜面台には半分だけ書かれた手書きの楽譜。左手の旋律は終わっているのに、右手の部分だけが“途中”で切れていた。

 まるで、続きを誰かに託しているように。


「先生に、続きを弾いてほしかったのかな」


 レンの言葉に、アカリは静かに視線を落とした。


「……ここで亡くなった生徒がいるの。名前は記録に残っていないけど、たしかにこの場所で、何かが終わった」

「でも、それだけじゃないですよね。なぜか、ここに来てから……何かを待ってるような感覚がするんです」


 アカリはピアノに触れた。冷たい鍵盤。だが、そこに触れた指先がかすかに温もりを覚えた。


「その続きを、私たちが弾いてもいいと思う?」

「……もし、それが誰かの“声”なら。ちゃんと受け取って返したいです」


 雨上がりの窓の外で、風が桜を揺らしていた。

 教室の中に花びらが舞い込んで、譜面台に一枚落ちる。

 それはまるで、「はじめて」と書かれた手紙のように――優しかった。


 



 


 その夜。

 アカリとレンは譜面の続きを二人で手探りで書いた。

 左手は穏やかなまま右手は少し躊躇いがちに、でも希望を掴もうとするように。

 レンが伴奏を引き受け、アカリが旋律を乗せた。ピアノを二人で囲むのは初めてのはずなのに、何かを思い出しているような懐かしさがあった。

 ――ポロン。

 音が重なった瞬間。教室の空気が、ふっと澄んだ。

 窓の外に誰かの姿が見えた。白いシャツ、短い髪、笑っている少年。

 幻かもしれない。けれど、レンはその笑顔が「ありがとう」と言っているとわかった。


「名前、訊けなかったですね」


 レンが笑うと、アカリも少しだけ微笑んだ。


「でも、きっと……歌ってくれてた」


 ピアノの最後の音は、ふたりの指で鳴らされた。

 そして、それに重なるように――“もうひとつの手”が、鍵盤の上に触れたような感覚があった。

 確かに、その音は“合奏”だった。

 誰かと、共に奏でる音だった。


 



 


 翌朝、レンがピアノの譜面台を見ると、そこには書き足された一小節があった。

 手書きのそれは、決して上手な筆跡ではなかった。けれど、温かかった。

 ――まだ音は続いている。



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