灯台のある岬
春の海は、光でできていた。
波は陽を抱き霧さえも淡く輝いている。崖の上に立つ灯台が、そこにただ在るだけで世界が呼吸しているように思えた。
レンはリュックを背負いくたびれた運動靴で小道を登っていた。市役所の臨時職員として廃止された灯台の点検記録を取る──ただそれだけの仕事。けれど彼にとって、それは人生で初めての「誰かのために動く任務」だった。
灯台の扉は開いていた。中からかすかに潮と紙の匂いがした。
「……アカリさん、ですか?」
中にいた女が振り向いた。白いシャツにグレーのスカート、陽の反射で透けて見えるような銀の髪。目元には疲れよりもどこか静かな安堵が漂っていた。
「あなたが……市役所の?」
「はい。今日からここでしばらく記録係をします。レンです。……失礼ですが、灯台って、今も使ってるんですか?」
女──アカリは、微笑んだ。
「もう航路には使われていないけれど、毎晩点けてるわ。これは“生き残った人のための明かり”なの」
「……それって、亡くなった人じゃなくて?」
「ええ。もちろん、亡くなった人たちにも。でも、それよりも──残された人たちのために。『あの夜、自分がもっと何かできたんじゃないか』って思ってる人たちの、心の場所になればいいと思ってるの」
レンは立ち尽くした。風が吹き抜け、ランプの鎖が小さく鳴った。
彼の胸の奥にも、誰にも話していない夜があった。
あの時、自分が手を伸ばしていたら。
あの時、声をかけていたら。
助けられたかもしれない“誰か”が、今も夢の中で背を向けている。
「……俺も、そう思ってたのかもしれません」
アカリは何も言わなかった。ただ、灯台のレンズを拭きながら、手の動きを止めなかった。
それがまるで、「続けて」と言っているように感じた。
「誰かを救えなかったって、自分を責めるのって、どうしたら止まるんでしょうか」
「止まらなくていいのよ」
「……え?」
「止まらなくていいの。ただ、“それを誰かの救いに変えられたとき”、きっと少し軽くなるの」
その言葉が、ゆっくりと胸に届く。
レンはポケットからメモ帳を出した。養父が書いてくれた小さな言葉があった。
《あなたは誰かの明かりになれる》
灯台は、ただ立っているだけじゃ意味がない。
点ける人がいて、受け取る人がいて、初めて“光”になる。
「……ここに、しばらくいさせてもらってもいいですか」
アカリは初めて、まっすぐ彼を見た。眼差しの奥に、ほんの少しの“希望”がきらめいているように見えた。
「いいわ。光を点ける人は、何人いてもいいもの」
その夜、レンはアカリと並んで灯台に灯をともした。
それは、亡くなった人のためではなく──
これから誰かを照らす、自分自身のための光だった。